2008年7月31日木曜日

配色と面積

色で塗りつぶした四角を三つ四つならべて、その色の組み合わせが、人にどんな印象をあたえるかっていう配色事典とか配色見本とかあるじゃないですか。

知的とかやさしいとか情熱的とかエレガントとかいって。

ああいうのって、でも、実際に Web デザインで配色を考えるときには、かならずしも実践的じゃないなあ、って思うんですよね。

というのは、あれ、四角がみんな同じ面積でしょ。あるサイトで使われている色をすべて抽出して、同系色のものはまとめて4色にしたとして、その4色で塗られている4種類の部分のそれぞれの面積の和が、みんなほとんど同じになるなんてことはありえないとおもうんですよね。

4色の組み合わせで人に与える印象って、各色の面積がばらついていても、変わらないものなんでしょうか。けっこう大小、その差がおおきく開いてる場合でも。

正直、昔から、4色もつかえるかよ、それともあれか、ちゃんと色彩学の勉強をした人ならやれんのか、とか思ってまして、でもそれは、同じ強さで4色を使おうと思うから無理なんですよね、って、ようやく最近そのへんに気がついてきた次第です。

色彩については、はずかしながらちゃんと勉強したことはことなくて、聞きかじりまじりの我流なんですけれども、配色って、少なくとも、Webページや雑誌なんかでは以下のようになってると思います。

1,トーンカラー

全体のトーンを決定づける色。あるいは同系色の一群の色。ページ全体の面積に占める割合は比較的大きい。

2,アクセントカラー

ページの中で、視線誘導上のポイントとなる箇所に用いられる色。全部あわせてもページ全体の面積に占める割合は非常に小さい。

3,ベースカラー

トーンカラーとアクセントカラーをのせて、それ自体としては人に積極的な印象を与えない色。ページ全体の面積に占める割合は印象の薄さの割には大きい。

それで、色数の比としては、上から、1:2:1 とか、ちょっとカラフルなやつで、2:3:1 とかなってるんじゃないですか。面積比はたぶん、4:1:5 とか。たんなる印象としてですけど。

そんなわけで、同格の4色の組み合わせじゃなくて、そういう色の役割も念頭におきつつ、面積の差も考慮に入れた配色事典なり、配色見本がほしいなあ、と思うんです。

URL を入力すると、そのサイトで使われている色を抽出してくれる Web アプリもいろいろありますけど、面積比のサポートも是非お願いしたいですね。ああいうのって、一回画面キャプチャして色を抽出するんでしょうか? あるいは、firebug みたいに、firefox のエクステンションでもいいですね。

たぶん、円グラフで見るのがいいんじゃないでしょうか。その上で、トラディショナルとか、スポーティとか、ドレッシーとかいってほしいですよね。なんだ、ドレッシーって。
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2008年7月30日水曜日

DS キャディー

社長が最近ゴルフなんか始めちゃいまして、社屋でやたらにクラブを振り回してえらい迷惑なんですが、それはともかく、そういう新しい趣味をもった Web 制作会社の社長として、いろいろと思うところがあったみたいなんです。

彼がいうには、いまネットには、ゴルフを始めて上手くなろうとしている人に伴走するような、サイトなり、Web アプリがあんまりないんじゃないかと。

たとえば、みんなで自分の回ったゴルフ場とそのときのスコアを入力すると、いろんな尺度でランキングが作られて、自分の今の実力がどの程度なのかがなんとなくわかるような、そういうコミュニティサイトが作れないかな、とか。

しかし、そういう、ランキングや競争に楽しみを見つけるようなサイトの価値は、参加人数の規模にもろに依存して、それこそ、いわゆるネットワーク外部性の話になってしまうんで、スタートアップが難しいと思うんですよね。

ただ、たしかに、ゴルフに特化したレコーディングアプリは、ありかも知れませんね。摂取カロリーと体重の変化を毎日入力してグラフを作って励みにしたり、なんらかの傾向を知ったりする岡田メソッドのダイエット支援アプリとか、あるいは家計簿アプリとか、そういうかんじですよね。まず、そっちを第一に追求すべきでしょうね。

それでそれを使う人がもしも増えたら、ランキングとかって話が始まる。ソーシャルブックマークもそうですが、ソーシャルだからこその価値は、みんなが個人的なベネフィットを満たそうとすることの積み重ねによって、結果的にもたらされるわけです。

でも、あくまでも、はじめから競争したいんだっていうんなら、ゴルフ場でラウンドを回るプレイヤーに DS を貸したらどうでしょうね。むかし、どっかの美術館でエッシャーの展示があったときに、DS とヘッドフォンセットを渡されて、絵の前にいくと、目の前の絵の解説が DS に表示されるっていうのをやってましたが、ああいうかんじ。

で、そのDSに、各ホールごと、そのホールの攻略法やら、現在の風の向きと強さ、温度、湿度、それから、かつてこのホールに挑んだ人が何人いて、みんなどれくらい叩いて、ホールインワンは何回出て、みたいなデータが表示される。もうキャディーいらず。前に来た人のコメントも残ってたりしてね。

それから、年齢別、ハンディ別、きのう、今日、今月のコースレコードだとか。一般には、知り合い3〜4人の仲間内での勝った負けたなんでしょうけど、そういうのがあると、見えないライバルが増えて、一打一打の張り合いも違ってくるかもしれない。

さらに、DSの中に「みんなのゴルフ」みたいにゴルフコースが完全にシミュレートされていて、専用のゴルフボールデバイスをひっぱたいてコースを回ると、DS の中のキャラと対決できたりして。

その上で、そういうのに対応したゴルフ場同士がインタークラブネットワークを結んでですね、ゴルファーコミュニティがどーんとできあがると。すごいなー。夢はふくらみますね、社長!

.. しかし、せっかくゴルフ場に来てるのに、ちまちま DS なんていじっちゃって、なんだかいろいろ台無しなような気がしなくもありませんね。

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2008年7月29日火曜日

いま、ここで Web

今読んでる本の内容にはあまり馴染みがないので、本文を読み進めるのと同時に、ところどころに付けられている註にも目を通したいってかんじなんです。

でも註の本文が巻末や章末にまとめられてたりすると、昔から思ってることなんですが、読みにくくてしょうがない。

案外、註は Web にあって、ケータイ片手に本を読んだほうが楽なんじゃないかと思いました。

家の洗濯機が壊れまして。外の蛇口から水を引き入れるホースの洗濯機との接続部分が、長年の水圧に耐えかねたのか破裂してしまい、ビシャーっと。そうなっちゃうと、もうどうにもならないとはいえ、一応、取説とか見たいじゃないですか。故障部品の取り替えに関して何かガイドがあるかもしれないし。

でも、にわかには、そんなものどこにしまったのか思い出せません。洗濯機の操作パネルの端のほうに、QRコードでも印刷されていて、取説は全部オンラインで読めるようになっていればいいのに、と思いました。

そういうのでいったら、CD買うときとかもそう。試聴コーナーに頼るんじゃなくて、一枚一枚に対応するPRサイトへダイレクトにアクセスできるQRコードがジャケットにちゃんと書いてあって、そこでなんとかして試聴できるようになればいいのに、と思います。あとライナーノーツが読めるとか。

ライナーノーツなんて、買った人に読ませるんではなくて、これから買おうかどうか迷ってる人に、その場で読ませるべきなんじゃないでしょうか。ジャケ買いして失敗した中学生を慰めるためにあるんじゃないんだから、なんて。

あと、カップラーメンのフタ。これから買おうって人に向けての売り文句から、作り方の注意やおいしくいただくためのヒントまで、なんだかビッチリ書いてあるけど、あそこに書ききれなかったことが書いてあるサイトとか、三分待つためのお楽しみサイトなんかがあればいいのに。たぶん、あれ食べる人の大半はひとりぼっちで、そういうの、結構喜ばれるんじゃないないかな。

PCの前や、あえてケータイをそのつもりで取り出したタイミングだけじゃなくて、オンラインのコンテンツが入り込めるところって、生活のいろいろな場面に、まだまだいっぱいありそうな気がするんですよね。

あと、ほかに、なにがあるかな。

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2008年7月26日土曜日

動画とエンベッダビリティ

いまさらナニですけど、YouTube が出てきてわかったのは、ネットで見る動画の長さ、尺は相当短めのほうがいいよ、ってことですよね。

いいとこだけかいつまんで、短いのを、ばらばら見るのがいい。ネットの動画コンテンツは、テレビや映画をそのままリプレイスしていくものではない、ということ。

だいたい、テレビの30分、60分、90分という長さは、たんに視聴するのにはそれくらいがちょうどよかったというだけでなく、制作や運用のしやすさ、広告媒体としての売りやすさから求められてきたもんなんじゃないでしょうか。

映画なら100分前後っていうのも、観客が集中力を持続できる限界の話もあるだろうけど、制作費、料金、映画館のキャパシティーなんかのバランスから、そのくらいがいいところだろっていうことになるんでしょう。

ネットでは、そういう事情や制約から自由なんだから、なにもテレビサイズ、映画サイズで動画を流通させることはないわけで。だから、Gyao はだめなんだよ、なんて、当時、生意気なことをいってました。

じゃあ、自由なネットの動画コンテンツはどうあるべきなの?というと、せっかちなリズムでクリックしてプルを繰り返す、このオンデマンドな世界にあっては、短めが吉。

YouTube は、いいとこ取りの細切れビデオを無数に集めて、それを気の向くままにクリック&プルで見ていく快楽を教えてくれたわけですね。

それから、もうひとつ、その短さっていうのが、こんどはテキスト中心の情報メディアへの動画の埋め込みを誘うんですよね。いや、短くてもいいのはそこに埋め込まれるからってのもあるんですよね。

動画は短いほどエンベッダビリティが向上するとでもいうか。そんなこといわないか。まあ、とにかく、ネット、というか正確にはブラウザベースでの動画コンテンツのいいところの第一は、まさにそこにあると思います。

ネットでなにかを動画で伝えたいと思った場合、あたりまえだけど、一から十まで全部動画の中に収める必要はないんですよね。目の当たりにして、たしかにこりゃ百聞は一見に如かずだわ、という部分のみ動画にして、そのインパクトの瞬間にいたるまでの背景や経緯、各方面の反応なんかは、動画プレイヤーのまわりに配置したテキストや静止画にまかせたほうがよっぽどわかりやすいですし、ユーザー体験も全体としてたっぷりとしたものにできると思います。

そのへんも含んだ状態で、だれずにちゃんと見られる動画を制作するのは、結構、スキルがいるんで、せこい話かもしれませんが、相応のコストと時間がかかっちゃう。

でもねえ?そんないい画質のうまい編集の長いビデオよりも、決定的瞬間を手持ちのカメラでさくっと撮ってきましたつって、詳しい経緯を説明したテキストと一緒にブログにアップされたもののほうが魅力的じゃないですか?その上、安上がりなんですから、同じ予算でたくさんのインパクトをユーザの皆様にお届けできるってなもんですよ。

そう考えると、ちょっと飛躍しますが、大晦日の格闘技番組なんて、純粋なファンの立場からすれば、テレビ向きのコンテンツじゃないな、なんて思います。

ご存じのように、試合はちょっとで、ほとんどの部分が過去の振り返りとサイドストーリーによる煽りでできあがってる。あれは、まさにあのまんまの構造で、Web サイトにしたほうがいいですよ。試合の部分だけ動画で、あとは、読み物と掲示板とリンク集。けっこう面白いのができそうじゃないですか。いつでも見られるし。

まあ、テレビのように収益は出ないでしょうけどね。あくまでもファンの立場では、ってことで。課金コンテンツにするって手もあるけど。あ、課金じゃなくて、何か買うと見られるってかたちのスポンサードを募るのはどうでしょうね。ペットボトルのお茶のどっかのシールをはがすとシリアル番号が出てくるんでそれを入力すると見られるとか。

そういう形式で見たいものは、いろいろ考えられそうですよね。

たとえば、M�1の第一回からの予選も含めた全漫才とか。好きものなら、たぶん見切るまで相当長い期間楽しめる。見切らないうちに次が足されたりして。そのあいだずっと同じ銘柄のお茶を飲み続けるわけです。シリアル番号、すぐに有効期限がきれちゃうんで。ただ、ユーザ認証は別にあって、どこまで見たかとかの記録は永続化されているからまたタチが悪い。なんて。


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2008年7月25日金曜日

ソーシャルサマリー

今日、本屋で「超訳『資本論』 」って本をたまたま手にとったんです。資本論第1巻の各章に書かれていることを要約して、さらに初心者向けの解説を試みたってかんじの内容でした。

これですね。

超訳『資本論』
http://www.amazon.co.jp/%E8%B6%85%E8%A8%B3%E3%80%8E%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96%E3%80%8F-%E7%A5%A5%E4%BC%9D%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-111-%E7%9A%84%E5%A0%B4-%E6%98%AD%E5%BC%98/dp/4396111118

ぱらぱらっと見ただけなんで、ちゃんと紹介はできないんですけど、資本論みたいに、いちいち小難しくって、しかも長大で、でも、名著で、みたいな本を、一冊丸ごとという単位ではなく、章とか段落ごとに要約して、それを元の本と同じ順番で読むっていうのは、けっこうおもしろそうだなと思いました。

で、思い出したんですけど、山形浩生が、まさにそのとおりのことをケインズでやってましたね。

これです。

ケインズ『雇用と利子とお金の一般理論』要約
http://cruel.org/econ/generaltheory/

こういうのを、みんなで力をあわせてやるのはどうでしょうね。ソーシャルサマリーとかいって。

要約する対象を特定して、みんなで思い思いの要約を登録していくんです。

まずは、対象の特定が問題ですね。一定のルールが必要。もう思い切って、対象を岩波文庫に特定しちゃうとか。サマってうれしいのはそのへんでしょ。

それで、Amazon での当該書籍の URL と、要約の範囲が、岩波文庫版では何ページから何ページにあたるのかを明記して、要約を書く。

そうすれば、集まった要約を本ごとにまとめて、順番に並べられる。

同じところの要約が重複しても構わない。むしろそのほうがおもしろそう。

書くのは、あくまでも要約。勝手な解説は書かないこと。でも註はつけられるようにしますか。個人的な思いのたけはそちらで発散していただく。

Wikipedia と違って要約文の編集権は投稿した人のみに限る。あの人の要約はいつもすごいね、なんて、サマり上手、要約名人みたいな人が出てきて、みんなから称賛されるような場になったほうが、この場合は、よさそう。でも、註は誰でもつけられるようにしよう。

あと、Wikipedia の見出し語になっている語句は自動リンクで。

読むほうからするとですね、Amazon みたいに書影がダーッと並んでね、ただいまの要約率60%なんて出てる。で、クリックすると目次が表示されて、目次にそって、投稿されたサマリーへのリンクがリストされている。

目次は、Amazon からスクレイプできるかな?目次部分は Wikipedia 風にみんなで編集してもいいですね。

いったんいずれかのサマリーページにアクセスすると、前後のサマリー、同じ範囲のサマリーへ自由自在に移動できる。このへんのナビゲーションシステムは工夫のしどころですね。livedoor リーダー 並の使い勝手がほしいところです。

それから、サイトとして、Amazon アフィリエイトに参加していて、稼げたら、本ごとにサマリーを書いた人で山分けとか。いや、稼げたお金は全額、なんかの募金とかに寄付するのがいいな。まあ、微々たるものでしょうけど、なんとなく、気持ちはいいでしょう。そういう、志のある、無償の文化事業ってかんじがいいですよね、こういうのは。

岩波みたいな本格派だけじゃなくて、ナントカ新書みたいに、ふつうに考えるとそれ以上要約する必要もなさそうな、軽いのでやってみるのも面白いかもしれない。

章や項ごとに要約したら、みんな1行か2行の、身も蓋もない断言だらけ、それだけ並べてみると、わけのわからないアフォリズムか、予言の書みたいになっちゃって大笑いとか。

あともう、まんがとかね。サマライズではなくて、ノベライズとして楽しむ。

そんなかんじで、硬軟おりまぜて。

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2008年7月24日木曜日

歩くと読める本

ずいぶんむかしに、万歩計が PC につながるようになって、通算でどれくらい歩いたかを、たとえば東海道とかシルクロードとかの地図にプロットしていけたら、ただ歩くより張り合いも出て、面白いんじゃないかなんて言ってたことがあります。みんなで競争したりしてね、今たまたま同じところを歩いている人に声をかけたり。あと、昔の人はこんなに歩いたかーとしみじみ実感してみたり。秀吉の中国大がえしコースとかあって。

でも、気がつくと、今じゃそれに近いものも普通に出てるみたいですね。ただ、シルクロードは歩けないみたいだけど。歩けるようにしたほうがいいと思いますけどね。

あと、そういう地図ものとか、バーチャルワールドものだけじゃなくて、歩いた分だけ、現実に何かがゲットできるっていうのもいいんじゃないでしょうか。

じゃあ何をゲットしたいかいろいろ考えてみたんですが、ちょっとゲットっぽくないんですけど、歩くと読める本ってのはどうでしょう。

たとえば、一度読み始めたら、どんどん続きが読みたくなっちゃうような本を電子化して、歩かないと続きがよめないようにする。一万歩歩くとやっと次のページがめくれるとか。いや、手でガーッて万歩計振って読んでもいいんですけどね、それは自由。

問題はそんな優良コンテンツがどこにあるんだってことかな。

でも、たとえば、北方謙三「水滸伝」愛蔵電子版万歩計セット〜漢たちとともに駆ける宋代の中国〜特別価格29、800円みたいなかんじにしたら、夜中のテレビで売れそうじゃないですか?あの文芸春秋とオムロンの夢のコラボが実現とかいって。

このあいだ、娘が祖母から万歩計を取り上げてすっかり気に入っちゃったみたいで、しばらくどこへいくんでも身につけていたのを見て、ふと、そんな昔話を思い出しつつ、ついでにちょっと展開してみちゃいました。

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2008年7月23日水曜日

Webのラボ業者

Web の制作会社は、成果物を納品して、その後の運用やサポートを請け負うだけじゃなくて、クライアントが主体的にプロジェクトに参画できるような作業環境の整備に、もっと力を注いでもいいんじゃないかと、最近思うんですよね。

なんならそれ自体、きちんとしたサービスメニューに仕立てて、売りものにしてもいいのかもしれないですよ。

たとえば、キックオフミーティングが済んだら、その日のうちに、ちょいちょいっと簡単な設定をするだけで、クライアントと制作会社(複数になるかもしれない)の担当者がアクセスできるメーリングリスト、チャット、Wiki、スケジューラ、ToDo管理アプリ、ファイルストレージ、Web I/F つきデータベースなんかを一式、みみをそろえて提供できる。

それから、CMS、ブログ、BBS、お問い合わせフォーム、メール一斉配信アプリ、空メール応答システム、アクセス解析ソフトなんかの、サイトの構築や運用にたいてい必要とされるようなものもちゃんとついてきたりして。そこらへんはもう、いちいち作ったり、調達したりしません。

それがスタートライン。いきなり、そこからスタートできる。その上、プロジェクトのパートナー、アドバイザー、実行部隊として、 ディレクターとプログラマーとデザイナーの3名で1組の制作チームを、好きに使っていいですよって。

うーん、いんちきくさいですね。いくらするんでしょう?

でも、半分本気なんです。正直、極端に押し進めればそういう話になるようなプレッシャーを、お客様筋から感じることが多いんですよね。Wiki、プロジェクト管理ツール、Web I/F つきデータベースのあたりは、クライアントによっては、もう実際に提供しています。

それで、さあ、そこから始められるようにするんで、"テーブル・フェーズ"は早めに切り上げて、もうプロジェクトのゴール設定の段階から、ばんばんプロトタイピングしていくような、そういう進め方でどうでしょうねっていいたい。

やってみなきゃわかりませんね、といったり、いわれたりすることも多いこの仕事ですから、やってみることのコストが最小になるように、なんとか"標準セット"をこしらえて、実際にやってみる体験をパッケージにして提供できないかな、と思うわけです。クライアントからみれば、外部にラボを持つかんじでしょうか。 

そうだ。たしか、面白法人カヤックが、そんなようなスタンスの営業をやっていたような。御社のラボになります!みたいな。違ったかな。

けっして、お安くはないでしょうし、会社としてもスケールしにくいスタイルだとは思うんですけどね。ただ、そんなことになったら、なんだか、じつに良心的に仕事ができて、とても気持ちがよさそうな気がします。

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2008年7月22日火曜日

レシピつき食品売場

たとえば、西友とか、イトーヨーカードーの食品売場でね、ポスターやら値札やら、いたるところに、QRコードがあって、いま現に売っているものと密に連動したレシピサイトにアクセスできたらいいのになあ、と思います。

もちろん新聞の折り込みチラシにもURLとQRコードが載っていて。

レシピサイトでは、今日の特売品を使った料理のレシピがフィーチャされつつ、野菜、精肉、魚貝、冷凍、なんてふうに売場の構成に即して、ここでこれを買って、こういうのを作ってみませんか、みたいな、さまざまなレシピが検索できる。

材料の一覧には、今日の販売価格や値引きが表示されたりして。調味料なんかもね、ガラスープの素は、今日買うと一番小さいのでいくらだ、とか、レシピのすぐ下に書いてある。便利じゃないですか。

レシピサイトはけっこういいのがいっぱいあって、重宝するんですけど、食品売場のあるスーパーが、販促ツールとしてレシピサイトを活用してもいいはず。ユーザーにもきっと喜ばれるでしょ?

ぼくなんかむかし、4F の本屋で料理本を立ち読みして、露骨にメモをとるわけにもいかないから、なんとかレシピを暗記して、ものすごい勢いで地下の食品売場に向かっていったりしていたもの。そんな人いないですか。

でもこんなこと、もうとっくに一度は考えられているんでしょうね。

たぶん、現実的に考えると、販売計画は各店舗で個別に行われるものだし、仕入れや売り上げの状況に応じて、日々、開店の直前までアジャストされるものだったりするから、それに連動させながら、販促として効果的なレシピ情報を編集して公開していくなんて、スケール的にもスケジュール的にも難しい、なんていわれるだろうな。あと、そんな立派なサイトを作って運用する部隊なんてどっから出てくるの?とか。

でも、取り扱い商品の価格はちゃんとデータとして管理されているわけで、しかもその上、あのチラシを制作するクリエイティブは存在しているわけでしょ。

レシピデータをどこかから買って来るなり、提携するなりして、なんとか調達しておく。で、商品データを入力したりチラシを制作することによって、それらがレシピデータと連携し、それこそ"副次的"にレシピサイトの基本部分が生成されていくような、そういう体制はつくれないものでしょうか。

そういうのができて、うまくいけば、レシピ+売場をめぐるユーザコミュニティも出来上がったりして、結構楽しいことになりそうな気もするんですよね。


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2008年7月20日日曜日

漢和 Wiki

漢字の一字一字にURIを与えて、漢和辞典サイトをつくる。Wiki でできていて、ページを誰でも編集できる。

ふつうの Wiki と違うところ。

1、専用のお習字アプリがついている

はらう、とめる、はねる、といった筆の動きを選択して、あとは全体のバランスだけ考えて一画ずつマウスを動かせば、手ブレも適当に補正してくれて、誰でもそれなりにお習字ができるFlashアプリを用意。それをつかって、字面をみんなで作る。

アプリは、書き順と一画ずつの始点終点の座標やスタイルを所定のスキームのXMLデータとしても保存する。将来、FLASH が廃れてもそれさえあればなんとかなるし、誤字や書き順の間違いなんかを発見するためにも使える。

ひとつの漢字に、複数の字面が作成されている場合は、ランダムにどれか一つが選択されて表示される。もちろん登録された字面を一覧することもできる。

アニメーションで、書き順を確認できる。複数の字面が登録されているとき、同じ書き順になっているもの同士で、グルーピングできる。少数派は間違っているかもしれない。

2、読みの音声録音ができる

音読み、訓読みを、みんなで録音する。

複数の音声が登録されている場合、音声の波形のパターンを比較し、似ているもの同士でグルーピングすることができる。少数派は間違っているかもしれないし。

ページの内容としては、まずは、どんな漢和辞典にもある項目、字の意味、音と訓のよみ、字のなりたち、その字からはじまる熟語とその意味、用例などは押さえておきつつ、あと、何年生で習う漢字だとか、常用漢字、人名漢字、JISだと第 n 水準だとか、各種の文字コードとか。もう、考えられるものはなんでも。それと間違えやすい別の漢字とか。なんせ1字1 URL だからスペースはたっぷりある。

その漢字が具体的な事物を指すものなら、その写真とかイラスト、抽象的な観念や概念をあらわすものでも、図解や、イメージ図みたいなものが添えられているといい。

熟語の用例とこういう図解は、みんなでよってたかってだと、結構盛り上がるかも知れない。

あと、その漢字に関連の深い文学作品や美術にはどんなものがあるか、とか、その漢字を名前につかっている著名な人物一覧とか、それで Wikipedia や関連サイトにリンクしていたり。この字、好きか嫌いでいったらどっち、みたいな、一言コメントつき投票があったり。

さらに、そうやって出来あがったデータをもとに、漢字検定のような問題が自動で出題されるとか。アップされている字面を組み合わせて、それでオリジナルTシャツを作れるとか。

なんて、今日は、娘が夏休みの宿題で漢字の書き取りをやっているのをみてて、そういうのあったらおもしろそうだな、と思いました。

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2008年7月18日金曜日

逆 Amazon アフィリエイト

ある出版社の方との打ち合わせの折、 Amazon では、書籍の紹介文を出版社が書き込むことができるんだけど、紹介文の中にリンクが書けたらいいんだけどなあ、という話になった。

Amazon よりももっとていねいに、ブ厚いボリュームでその本を紹介する独自のプロモーションサイトや、連動企画サイトへの誘導はもちろん、その本に関心をもって、出版社による紹介文にまで目をとめたという、高度にターゲッティングされたユーザへ向けた、さまざまなマーケティングも展開できようというものだ。

特に、後者は、下手にリスティング広告を出すよりよっぽど高い効果が見込めるんじゃないか、なんて。

でも、当然ながら、リンクを書くのは反則なんですよね。うーん惜しいですねえ、とその方とうなっているところで、チーンと閃きました。

本のカバーにQR コードを掲載するってのはどうだ?Amazon にとりこまれた表紙画像になってちょうどいいような大きさで。

そのときの話で念頭におかれていたのは、ある資格試験対策の問題集で、どうせ表紙はまるで意味のない幾何学模様だったりするんですよ。

そのときは、みんなで、いいね!いいね!と盛り上がったんですけど、どうでしょう?

ところで、ブラウザのアドレス欄に QR コードの画像をドラッグ&ドロップしたら QR コードに埋め込まれたデータが入力されるとか、できるようにならないのかな。
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トップページなんかいらない

きのうの続きで、トップページの話です。

そもそも、トップページってもういらないんじゃないか、と思ったことがあったんですよね。

URL 的にルートに位置するページっていう意味ではなく、ウェルカムメッセージがあり、お知らせがあり、主要なセクションの紹介や新着ページのリストがありという、サイトの唯一の入り口でございますといった顔つきのトップページ。

ちょっと前に小さな専門ニュースサイトを作って運用してたんですが、アクセスログをみると、ほとんどのユーザが、検索エンジン経由で直接記事ページにアクセスしてきて、そこからサイト内を巡回することもなく離脱していくんですよ。

トップページのアクセスなんてすごく少ない。

ぼくがそのサイトの運用から離れた後、プレゼント付きのアンケートをやることになって、担当者にどこに告知出したの?って聞いたら、トップページですって、おい、そこ誰も見てないよ?みたいな話になったこともあります。

広告から URL が消えたことからもわかるように、Web サイトを見て回るというユーザ体験にとってのトップページは、検索エンジンの検索結果のページでしょう。あるいは RSS リーダーとか。次に読むべきページはそっちに列をつくって待っている。

あ、だから画面遷移図やワイヤーフレームを書くときは検索エンジンの検索結果から書くべきかもしれませんね。

それでもサイトの提供者としては、訪問ページのコンテンツだけ読んで帰るなんて、そんなつれない、ほかにもいいのありますよ、とサイト内の他のページをおすすめしたい。だから、最近、フッタナビゲーションの重要性が認知されはじめて、でかくて充実したメニューをフッタに配置するサイトが増えてますよね。

たしかに、あの位置は、その上のコンテンツを探し当ててわざわざやってきて、さらにちゃんと下まで見てくれたユーザに対する、いわゆるコンテクストナビゲーションを提供するにはもってこいですよね。

向かって右側のサイド、エクストラメニューとか呼んでる部分を肥大化させる手もあるけど、あっちは、コンテクチュアルというより、まさにエクストラで、正直あんまり意識が向きませんね。広告スペースを広げるのにはいいかもしれないけど。ただ、エクストラは、ページの最上部にも届いているんで、一種の強制露出をやりたい場合は、ある程度の意義を持つかも知れません。

ともかく、あのフッタメニューの面積の広さに反比例するように、サイトにおけるトップページの価値というものは相対的に低下しているんだと思います。その一方で、充実したエクストラメニューとフッタメニューをしたがえて、サイト内のすべてのページがトップページとしても機能しはじめた、といっていいのではないでしょうか。

しかし、サイトの規模が小さかったり、検索エンジンのクローラにサイトの隅々まで巡回してもらえなかったりすると、検索結果にトップページしか顔を出せない場合もあります。それだと、すべてのページがトップページだ、なんてことはいってられません。

でもそしたらですね、今度はトップページが、たったいま検索を行ったユーザの動機や要求に応えるコンテンツとして登場しなきゃいけないんじゃないでしょうか。少なくとも、サイト内のコンテンツの紹介文なんかをつうじて、探していた情報の冒頭部分だけでも読み始められたというかんじを出したい。

よくわかんない挨拶と素っ気ないメニュー項目だけがたいした説明もなくずらずら並んでいるだけなんてのは最悪でしょう。だって、 そのとき並べて見られてるのは、Wikipedia だったりしますよ。

ウェブユーザビリティのなんかの本に、トップページの文字数をまず半分にしてみなさい。それができたら、次にさらに半分にしてみましょう。なんて書いてありましたが、それは、場合によりますよね。むしろ、フッタナビゲーションの作り方の指針として受け止めるべきかも知れない。

なんて、以上は、つまり、検索エンジンがユーザにとってのトップページになってしまった現実をちゃんと受け入れてサイトデザインを考えようという話なんですが、そう考えると、ブログもふくめた CMS に期待したいのは、リファラにくっついてる検索キーワードによって、フッタナビゲーションやトップページの内容を切り替えられる仕組みだったりします。そういうのもうあるのかな?

あっても使いこなすのは難しそうですけどね。でも、あったら、トップページしか検索にひっかからないサイトなんかでは、結構重宝するんじゃないかと思うんですけど、どうでしょうね。
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2008年7月17日木曜日

トップページのことは最後に考える

ギャレットの「ウェブ戦略としてのユーザーエクスペリエンス〜5つの段階で考えるユーザー中心デザイン」という本でいうところの構造段階にはいって、いよいよサイトデザインだなんつって、ワイヤーフレームを書くとき、いきなりトップページから考え始めるのはやめたほうがいいと思うんです。

いや、実際の仕事だと、だいたいトップページからいくことになるんですよ。クライアントもそれを期待するし、こちらもそういう進行を提案したりする。場合によっては、サイト全体のブループリントも定まらないうちから、トップページのカンプを作っちゃって、いきなり表層段階の問題を解きにかかる始末で。

サイトの第一義は、コンテンツやサービスの提供者の目的とユーザーのニーズをマッチングさせることにあるんであって、その現場は、トップページじゃなくて、当然ながらコンテンツそのもの、サービスそのものを乗せたサイトの末端にあるわけです。

だから、まず優先的に取り組むべきは、末端の、サイトの価値の発生源についての検討であるべきでしょう。

トップページがどうなるかなんて知ったことか、という態度で、サイトの一番の見せ場からワイヤーフレームを書けばいいんです。

なにしろ、そのマッチングの現場が、具体的に、どのようなものとしてありえるのかを定めていくことからしか始めようがないはずなんです。ほんとは。しかもそれが、サイトの価値を決定づける一番重要なプロセスです。

それで、そこが決まるから、あらかじめ何を開示して、何を隠して、どうアピールすれば、ユーザにその魅力に気づいてもらえるのかってことをやっと考えられるわけです。もうあとは、ちょっと極端にいえば、サイトのトップページもその一部にすぎないプロモーションの話なのかもしれませんよ。

よくトップページのワイヤフレームをみればサイト全体の構造がわかる、とかいうんですよ。トップページはサイト全体を写す鏡みたいなもんだ、なんて。

だから、トップページを結構にデザインすることで、サイトデザインのほとんどが終わったようなつもりになってしまう。

でも、トップページに必ずしもサイト全体の構造を十全に映し出す必要はないんです。その魅力あふれる現場にユーザを誘うための一通過点にすぎないわけですから。映し出されているのはむしろサイトの目的、ぶっちゃけていえば下心であるべきです。ギャレットの教えにしたがえば、それくらい戦略的であれってことです。

だいたい、仮にトップページがサイト全体を映し出す鏡なんだとしてもですよ、まず映し出されるものが先に姿を明らかにしてなきゃ、なんにも映らないでしょ。

たぶん、書籍の企画ならまず目次案を作るとか、原稿を書くならまずプロットを作るとか、そういう手法の延長でサイトデザインを考える流れがあって、そこから自然にトップページ至上主義みたいなことになっちゃったんじゃないかな、と思ったりします。

いや、本でもね、ちょっと仕掛けが凝ってるやつ、たとえば「ぴあ」みたいなガイドブックとか、写真、地図、テキスト、表組み、いろんなピクトグラムなんかが相互に有機的に関連しあって、読み物でもあるんだけど、一種の機能性も追求するようなやつ。

ああいうのは、やっぱり、そうしたいわばツールとしての側面に対する企画とデザインがあって、それから、じゃあ目次はどうあるべきだとか、目次と一緒に「この本の使い方」が必要だろうとか、そういう機能性を備えた本であることをユーザに気づいてもらうための表紙の作り方はどうだとか、そういう順番で考えるんじゃないかと思います。

Web の場合、「テキストを読む」がユーザ体験の中心になるようなサイトであっても、目次案を作れば全体を見切ったことになるようなタイプの書籍には似なくて、本でいうならガイドブックのような機能性がどうしてもついて回りますよね。(どうしてもというか、それがいいところだけど。)

そこに一番大事なユーザーエクスペリエンスというものがあるわけだから、トップページのことは最後に考える、でいいんです。

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2008年7月16日水曜日

iPhone じゃなくて、iPodTouchに触りました。

職場の先輩が iPhone じゃなくて、iPodTouch を買ってきて見せびらかしてくれました。店頭でちょっと触ったことはあったけど、じっくりいじりまわしたのははじめてでした。ためしに会社の無線 LAN につないで、safari でほうぼうのサイトを閲覧してみたら、その使いやすさといったら並大抵じゃないですね。

実際には、当面、回線がそう太くはないのでデータ容量を切り詰めなきゃいけないとか、マウス前提の操作(マウスオーバーとか)はできないとか、いろいろあるでしょうけど、大きな方向として、みんなこれになってくれたら、PC向けだの、モバイル向けだのって、サイトを作り分けなくてもよくなるのに!と、思いました。だって、CNET とかバカでかいサイトを見るんでも、少しもストレスを感じなかった。

それから、やっぱり、iPhone のアプリもおもしろそうですね。

(米国じゃどうだか知りませんが、)DSによって、ゲーム、アプリに期待される効用や、それが日常生活に組み込まれる状況やタイミングについて、いってみれば一種のパラダイムシフトが引き起こされたんだと思いますが、iPhone のアプリはその流れに対する決定打になりうるのでは。もしほんとにみんながこれを気軽に作れるようになるんなら、DSが切り開いた方向性をさらにカジュアルに押し進めたような世界がやって来るんじゃないでしょうか。

たとえば、単純にサイコロを転がすだけのアプリにだって、ぐっとくる可能性がでてきます。
それは、どこにでも持ち運べて、手軽に取り出せて、わざわざ選んで実行することが少しも億劫ではなく、むしろそのプロセスすら楽しいくらいだという、そういう実行環境が前提になるからでしょう。iPodで音楽を聞くのだってそうだったでしょ。

すてきな質感の3Dでね、転がす事自体に、快感を覚えるよなものだったら、さっと取り出して振りたくなることもきっとあるはず、と思えてきます。

押入の奥に昔なつかしい人生ゲームをみつけて、じゃあ、ひさびさにやってみっかとフタをあけてみたら、なぜか真ん中のルーレットがなくなってた。そしたら、さっと iPhone を取り出してそれをルーレットにすればいい。あの、有名な拡大縮小の指のかたちで、ぐいと好きな方向にひねれば、ダーっと回る。あれ下手なやつがいて、何回まわしても、いっつも途中でひっかかって、ダララッ、ダラッ、みたいなね、そういうのも忠実に再現してくれる。

こういうのは、PCでも従来のケータイでもDSでもありえないですよね。

ケータイアプリでもそういう世界が開けてもいいと思うんだけど、どうなんでしょうね、あるのかな、ぼくが知らないだけで。いや、サイコロの場合のすてきな質感とかがやっぱり難しくって、そして、この話のウェイトはけっこうそこにかかっているのかな。いや、やっぱり、タッチインターフェースにこそ、今までのゲーム、アプリに向かっていた心構えみたいなものから、人を逸脱させる力があるのかな。指で触ると反応が返ってくるというプリミティブな体験に。マウスのときもそういうのがあっただろうな。

DSの場合は、ソフトを売らなくちゃいけなくて、流通が暗黙に要求するパッケージングの規格というものがあるでしょう。数千円で売って不思議じゃないものに仕立てなくてはいけない。iPhone のアプリは、そこから自由な存在でいられる。それも結構でかいですよね。

ぼく自身がやってみたいのは、ザ・等身大、ザ・実物大シリーズといって、たとえばジャイアント馬場の写真とかを実物大で収録して、あのインターフェースで撫でまわしながら、その大きさを実感するというやつ。頭から顔、首、胸と、ずーっとスクロールできるわけです。スクロールしきるまでけっこう時間がかかる。もちろん拡大縮小は自在。1/1になったときはそれとわかる合図がある。どんどん縮小して、ぐーっと引いていくと、馬場のとなりにナウマンゾウがいたりして、今度はそっちに近づいたり。それをあのちっちゃい画面でね、触るんです。楽しいかな。楽しいですよね?当然、エロい方向もありますよ。

いや、インターネット黎明期、たしか全日本プロレスのサイトにあったんですよ、等身大のジャイアント馬場の GIF 画像が。ブロードバンドなんかなくって、みんな夜中に電話でつないでた時代に凶悪でしたね。でもその存在がずっと忘れられなくって、どうにかあれをリバイバルできないかとなんとなくずっと思い続けてきたわけなんですが、今日、 iPodTouch を触らせてもらったとき、あ、来た、と思ったんです。


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2008年7月15日火曜日

欄外のまめちしきコミュニティ

唐沢俊一に「トンデモ一行知識の世界」という本があります。80〜120字程度の短いセンテンスの、ちょっとしたまめ知識をコレクションした本です。結構昔の本ですが、今でいえば、ようするにトリビアですね。一部では有名な本らしいです。トリビアの泉も、最初の企画の段階では、この本を参考にしたかもしれません。

たしか、そのむかし、nifty-serve(パソコン通信)のどこかの会議室で有志からネタを募って作ったんだと本文に書いてあったと思います。

60〜70年代生まれの人にはわかってもらえると思うんですが、トリビアだとか、この一行知識だとかに触れると、いつも思い出すのは、学研のひみつシリーズやまんが日本史なんかの欄外に載ってた「まめちしき」です。

[まめちしき] 王選手が1日に吸うたばこの本数は40本くらい

みたいな。どうでもいいけど、王選手にして40本ってすごいですよね。ホームランじゃないですからね。

それはともかく、そういうまめちしきは、それをメインとしていただくよりも、やはり、ゆるく本文と関連しあいながら、欄外にそっと添えられてこそ生きるんじゃないか、なんて思ったりします。

唐沢俊一はパソコン通信でしたが、まめちしきの wikipedia みたいなのがあって(もうあるかな?)、100文字以内という制限のなかで、みんなで、それこそ寄ってたかって、まめちしきを書いていく。

出来上がりは100文字にすぎないけれど、やっぱり wikipedia みたいに、一つのまめちしきごとにノートがあって、そっちではだいぶ揉めたりして。

そうして編纂されていくまめちしき集をそれとして楽しむのもいいんだけど、GoogleAdSence のような仕組みも用意する。

所定の HTMLコードを埋め込んだページには、そのページの内容に関連するまめちしきがランダムに表示される。まめちしきが、まめちしきとして一番輝ける場所に、ひっそりと。

まめちしきと一緒に、まめちしきへ寄せられた「Fun!」 投票数とか、「異論あり!」投票数なんかも表示されて、さらに、対応するノートへのリンクも設定されている。

まめちしきのノートのほうでは、これまでにそのまめちしきを掲載した外部ページの一覧が見られたりして、まめちしきをきっかけに、おもいもよらないページがつながったりする。まめちしきを載せてくれたページのSEOにも多少貢献できるかもしれない。

なんて、そういうのおもしろそうだなと思いませんか。

自分がアップしたまめちしきに、忘れたころ、おもいもよらないところで出くわしたりしてね。

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2008年7月14日月曜日

ソーシャルブックマークのまとめとアーカイブ

まんがのネームや雑誌のエディトリアルデザインのように、複雑さがポジティブな価値をもたらすような面が、Web のどこかにあるか、って話、ちょっと考えてみたけど、なかなか見あたりませんね。

と思って、前のエントリーの続きは書くのをあきらめようと思ったんだけど、いやいや、身も蓋もないようなことをあらためていうようだけど、ハイパーテキストで文書を公開できるオープンネットワークがあって、それを人々が使い倒してることの全体が複雑さそのものですね。

そして、それは相当、すばらしい。

まんがとエディトリアルデザインの複雑さにはコントロールがあって、そこにプロフェッショナリズムも発生しえたんだけど ... なんかそういうセンでまとめられないかという下心でこの話をはじめてみたところがあるんですが、Web そのものが価値ある複雑さとしてあるのだ、とかいっちゃうと、Web にそれはなさそうですよね。そういうものから自由であることが価値の中心にあるんだし。

実際の仕事でも、複雑さをうまいこと導入するなんて話は皆無で、むしろ、ユーザーがシステムやサービスやサイトに対して抱く概念モデルをいかにシンプルで端的なものにしてあげられるかということをいつも考えてます。

ただ、エディトリアルデザインに多少の郷愁を覚える身としては、たとえば、ソーシャルブックマークでアグリゲートされるブログのエントリーのひとつひとつを、あるテーマに関する雑誌の特集ページを構成する本文やコラムにみたてて、見開き単位の誌面に適当な見出しやリード文とともにレイアウトしてみたらおもしろく読めるんじゃないかなあ、と思ったりもします。

で、そういうのを、ある時期のソーシャルブックマークのトレンドを伝えるアーカイブとして、はてなあたりが残していけばいいんじゃないかなあ、とか。年鑑みたいにしたら、書籍でもある程度売れるんじゃないでしょうか。

それはいわゆる「まとめサイト」と呼ばれるものの一種かもしれません。

そして、まとめサイトの内部では、そういうふうに、読みやすさ、把握のしやすさに貢献する複雑さとして、エディトリアルデザインが入りこむ余地がありそうですね。まとめ職人とかいってね。

まとめ方をめぐる方法論や技術論が発達して、まとめ支援ツールにすごいのが出てきたりすると、ソーシャルブックマークのみかたもバラエティに富むようになって、それはそれで楽しめそうだと思うんですけど、どうでしょう。


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2008年7月12日土曜日

複雑さのいいところ

うろ覚えですが、かつてまんがに訪れたエポックメイクとして、手塚治虫が新宝島のファーストシーンでやってみせた映像的な革新のことががよく取り上げられるけど、石森章太郎にはじまって、さらに彼に影響を受けた少女まんが家たちが完成させたネームの重層化による内面描写の革新のこともすれちゃいけない、みたいなことを、たしか、大塚英志がいってたと思います。

ネームのというのは、まんがのセリフやナレーションのことですけど、石森以前のまんがでは、手塚といえども、登場人物の発話と内心語の連なりに、物語の話者によるナレーションが挿入される程度だったのに、石森以後では、そのうちの内心語の使われ方がさまざまに分化、進化したんだそうです。

たとえば、内心語は、それが内心語であることをあらわす破線や引き出し線が泡状の特別なフキダシの外に進出して、一人称で書かれる小説の地の文のようになったり、コマの枠まで乗り越えて、すでに誰の内心が語っているのかも判然としない、役割としてはTVドラマの挿入歌のような、ポエムのようなものにまでなる。

通常の発話、内心語、ナレーション、一人称語り、そしてポエム、これらを細切れにしながら次々と重ねていくことで、内面的で複雑な表現が可能になり、まんがでも深い話ができるようになった、というわけですね。ちょっと正確には紹介できていないかもしれませんが、そんな話として覚えています。

そういえば、雑誌の編集をやってたころ、編集者としての師匠である社長に、企画も原稿も、見出しも、誌面のレイアウトも、もっと立体的にしろ、と、よくいわれました。立体的というのは、読者に集中の持続を強要しないように、改行し、段落を分け、小見出しをつけ、本文は短めに、コラムや図表は多めに、見開き単位で切り口を変え、メインタイトルの周囲には、サブタイトルやキャッチコピーやリード文をふんだんに組み合わせろ、みたいなことです。

それは、拾い読みや、斜め読み、読むと言うよりも眺めて楽しむことができる、雑誌特有のインターフェースを実現するための手口なんですよね。師匠によれば、子供向けの雑誌や婦人誌で発達した方法なんだそうです。

まんがのネームの重層化とはまったく違う話ですが、ある目的のために複雑さが志向されている点は共通していると思います。

でも、Webでは、特にあの Google のトップページに衝撃を受けて以来、ユーザビリティの話なんかでも、複雑さはとにかく悪ですよね。なんかあるかな複雑さがメリットにつながるケース。

明日また考えてみるかな。
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2008年7月10日木曜日

勝手アンカー

人にWebページを紹介したいときに、相手にはそのページの特定の箇所にダイレクトにアクセスしてほしいことがありますよね。

紹介したいページが自分の作ったページならアンカーを設定するわけですけど、他人の作ったページではそうはいきません。

そんなとき、人のページに勝手にアンカーを設定できるようにならないのかなあ、と思いませんか。そう、勝手アンカー。無断アンカーといってもいいかもしれない。

なんかいい手はないものか。

いちばん最初に思いつくのは、Googleのキャッシュとか、Web魚拓とかがありなら、紹介したいページのキャッシュを勝手アンカーつきで保存してくれる Web アプリというのはどうかと。

でも、そういうキャッシュはお断りっていうサイトも多いでしょうしね。下手したら怒られますね。

すでに、エクステンション、アドオン、プラグインを使って、Webページの任意の箇所をハイライトしたり、ノートをつけたりして、それをみんなで共有できるっていうのはありますよね。
あれは近い。

近いけど、ああいうのは、自分のためのブックマークという動機から出発しているからありえるんですよね。共有はその後の話であって。人にちょっとリンクを紹介したいだけで、特別なツールの導入を前提にするなんてありえない。

大上段なとこで、もうURL/URIの仕様を拡張しちゃうってのはどうだ。リソースの任意の箇所をリンク先として指定する方法として、アンカーの他に、Xpath のような記法でDOMツリーの任意のノードを指し示せるようにしてはどうか。

それで、主要なブラウザがみんなサポートするのを待つ。だめか。

あと完全にどうかしてる話なんだけど、一応いっておくと、bookmarklet とか、greacemonkey とかにするような小さい Javascript のコードを、なんとリンクに添付できるようにして、信頼してもいいって人はリンク先を表示中に添付されてきたコードを実行する、みたいなことにならないかな、ってそんな危ない話はないですね。

じゃあ、もうリンクはあきらめる。そのかわり、将来のアンカー設置個所の候補を投稿できる Web アプリをつくる。

アンカーを埋めたい箇所っていうのは、ページの隙間なんじゃなくて、本来コンテントですよね。テキストノードか、コンテントとしての外部ファイルか。隙間にアンカーを設定することが多いような気がするけど、アンカータグを考えた人はコンテントをそれでマークアップすることを想定していたはず。

テキストノードならその一部を、外部ファイルならそのファイル名を、対象となる URL とともに投稿する。Web アプリは対象ページを調べて、確かに投稿されたコンテントが存在していれば投稿を受付け、将来のアンカー候補にURI を与える。その URI にアクセスすると、対象のページへのリンクとともに、検索エンジンのスニペットのようなかんじで、紹介したい人が紹介したいと思った箇所のコンテントが表示される。

サイト名、ページのタイトル、URLで検索すると、ヒットしたサイト、ページに対して、いろんな人が投稿したアンカー候補がリストされたりして。見た目はまるで検索エンジンの検索結果なんだけど、スニペットがみんな誰かが直にリンクしたいと思った箇所のコンテント。人に紹介したいと思った箇所に、すでに他のだれかがアンカー候補を設定してくれていれば、そのURIを紹介すればいい。

これを将来のアンカー候補だと言い張っていれば、たくさん候補が提案されているサイトの Web マスターなんかはだんだん気になっちゃって、いつか本当にそこにアンカーが設定されるかもしれない。なんて。

いや、そこまではやらなくても、必要に応じてときどき使うツールとして地味に存在してくれていると、結構便利かなあと思うんですけど、どうでしょう。

でも、ここまでぐだぐだ書いといてなんですけれども、実は、ブログとともに普及した、1トピック1リソースの「エントリー」という単位こそがこの問題に対する最良のソリューションだったんですよね。エントリーはファイル=ページよりも一段抽象度が高くって、URIやRESTだとかでいうところのリソースというものに正確に対応してますよね。世の中こっちがベースになるなら無断アンカーなんていらないや。

というわけで、無断アンカーいらない、という結論になっちゃいました。

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2008年7月9日水曜日

議事録アプリ

議事録大事ですよね。社内でも社外でもミーティングがあれば必ず書くようにしています。いろいろな意見もあるようですが、あれは下っぱが書かされるよりも、プロジェクト全体を常に把握していなければいけない立場の人が書くべきだと思います。

それで、そういうリーダー役の人が、ミーティングをつうじて了解した事をたんたんと記録していけばいいんです。あとで読んでわかりやすいように、適当にグルーピングしたり、前後を入れ替えたりするのもあり。

議事録はプロジェクトのメンバーにまずドラフトとして公開され、メンバーはリーダーの現時点の主観に対して、いやそれは勘違いだとか、あのことをもう忘れているのかとか、それは妄想で勝手な書き足しだとかつっこむ。そういうやりかたのほうが、実は安全だと思います。

議事録が大事なのは、議事録自体をリリースするための確認もふくめて、あとで読み返せるところにあるんで、議事の進行をそのまま記録しているようなやつは、あとで読み返しにくい。まずつまらないから読みたくない。リーダーの主観がむき出しになっているようなもののほうが、メンバーも緊張して読めるというものです。リーダーがまとめ上手ならさらに言うことなし。

でもリーダーっていうのもヒマそうにみえて、案外忙しいもので、できれば議事録くらいもっと楽に書きたいと思っているかもしれない。楽に、というか、たとえば、プロジェクト管理で Trac のチケットを使うように、あるいは、 Jude でユースケース図やクラス図を書くように、はたまたソースコードが、Subversion でバージョン管理されているように、もっと合理的に書けて、そして管理できないものかな、と。

Jude のようなアプリで、アジェンダごとにクラスのようなボックスを作業エリアにクリエイトする。ボックスの中は大きくふたつに区画されていて、それぞれ要求と仕様を書くエリアになっている。そして各区画には、さらに要求や仕様の説明を書けるスペースが用意されている。

この要求と仕様と説明の区別、清水吉男の「要求を仕様化する技術」で強調されていることです。わけのわからない仕様書って、要求と仕様が区別なく列挙されていて、なおかつその合間あいまに、要求でも仕様でもないたんなる説明が挟み込まれているもんだといっていて、たしかに思い当たります。昔はそんなのばっかりでした。

要求というのはシステムがどんな効用をもたらすべきなのかということ。仕様というのは、要求が具体的にどのように実現されるのかということ。説明は、どうしてそのような要求がなされるのか、どうしてそのような仕様が選択されるのか、その理由を述べることです。

この区別を意識することって、議事録を書く上でも有用だと思うんですよね。そう思って、それを一種のパターン言語にしたてて、入力支援アプリを使って議事録を書いてみる。

あるテーマをめぐってなされる最初のブレストやエキスパートに向けられた質疑とその応答なんかはみんな説明の枠に書くことになります。

そうした応酬をへて、結局、会は何かを決定するわけです。決定されたことは、だいたい要求か仕様かのどちらかになるでしょう。要求として、プロジェクトのさまざまな目標が明記され、そして、仕様のほうには、誰がいつまでにどうやって何をするのかという、プロジェクトの ToDo リストの一項目になりえる事柄が書き込まれていきます。

そうして出来上がったアジェンダごとのボックスは、線で連結して相互に関連づけることができる。関連線には、クラス図のように関連の仕方やタイプをあらわす名称を与えることもできる。関連づけは、別の会議のボックスとの間でもできる。

それから、議事を進行しながらライブで記述していく場合は、ボックスを作成した時刻や入力が行われた時間が記録できる。記録された時刻や時間は、会議にかかった時間やアジェンダごとの時間の配分がわかるようにあとでグラフ化して見ることもできる。

また、音声入力ができる場合は、会議中の音声も録音される。録音は現在アクティブなボックスごとに再生できるように行われる。そうなると、書記も兼ねるリーダーは、話題の振れ方におうじてアクティブなボックスを切り替えなくちゃいけなくて忙しいかもしれませんね。

あとは、もちろんキーワード検索はできるし、ボックスを記録された時刻にそって順番にスライド風にビューできたりもするし、関連づけにこだわらず、似た話題のボックスを出現する特徴語で機械的に分類してもらえたりする...。

なんてまあ、そんな議事録アプリがあって、実に立派な議事録が作れちゃったりすると、それを眺めているだけでぽーっしちゃって、厳しいプロジェクトのリーダーなんてつとまらないかもしれませんね。

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2008年7月8日火曜日

Google Map のようなインターフェースを備えた歴史年表教材

ちょっと昨日の続きのような話なんですが、中学、高校で、教科書と一緒に資料集とか、副教材を使うじゃないですか。ああいうものの中には、書籍よりも e ラーニングが向いている素材が結構あるように思うんですよね。

たとえば、歴史の年表で、こういうのはどうでしょう。

松岡正剛が、むかしそういう本を出してたと思うんですけど、日本史も世界史も一緒にして、地域やテーマごとに年表をまとめ、同時期の出来事が同じ時間軸に揃うようにしてそれらをすべて並列させる。

そうして並べられた複数の年表レーンの上を拡大縮小と平面移動が自在な、Google Map のようなインターフェースで"這って"いく。

年表には出来事がかいてあるわけだけど、そりゃもう、写真やら動画やらポップアップするし、なんなら歴史上の人物がしゃべったりしますよ。

そして、各レーンは、歴史の教科書を構成するおおまかなトピックスごとに区画されていて、1区画ごとに数問の歴史クイズが用意されている。このクイズに全問正解すると、その区画はクリア。クリア済みを表す背景色で塗りつぶされる。

ときどき、同時期の他のレーンの内容が「そのころ〜では .... 」みたいにクイズになってたりして、油断できない。

そうやって年表を全部塗りつぶせた頃には、そう深い歴史的考察には触れられなくても、
年表地図に対する土地勘、つまり歴史勘が養われているのではないかと。

なんかそういうの作ってみたいです。
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2008年7月7日月曜日

中間、期末対策に e はあるのか?

ちょっと前にミスタードーナツで隣に座った高校生が一生懸命友達の授業ノートを写しているのをみて、そういえば、中学生や高校生の 試験勉強にもそろそろ e が入ってきてもいいんじゃないかと思いました。e ラーニング。

自分のことで考えて、PCやネットの発達のおかげで仕事の仕方はずいぶん変わって、今でも年を追うごとに便利になっていくのを感じるくらいだけど、中高生の勉強の仕方って、昔からあんまり変わってないのかも?

あの時代の勉強って、おおまかにいうと、次の3種類くらいに分かれると思うんですね。

1、概念学習

授業をうけたり、教科書や参考書を読み込んだり、友達のノートを写したりして、学習内容を理解するってことは、そこであたらしく出会う概念を既知の概念と関連づけたり、違いを際だたせたりする作業ですよね。

2、記憶学習

厳密に1、と切り離すことはできないかもしれないけど、漢字からはじまって、英単語や数学の公式、理科社会科の用語、記号、数値 ... いろいろ覚えなくてはならないものがありました。

3、テストの練習

科目ごとにはっきりした指導目標があって、一方で学習の成果を計る方法にはそれほど多くのバリエーションがあるわけではない、ということであれば、当然、試験の出題内容、出題内容は、一定の傾向やパターンを持つことになるでしょう。これにあらかじめ慣れておかない手はないですし、1、と2、に関する取り組みが十分であったか事前に確認しておく意味でも非常に有用なプラクティスです。

ま、じつに当たり前のことを書いてしまったようですけど、たとえば、上記の2、の部分は、「えいごづけ」だとか「iKnow」 だとか、DSのいろいろな学習系のソフトだとか、ああいいう e で、ずいぶん効率も効果も高い勉強ができるんじゃないかと思うんです。

それから、3、のためにある問題集なんて、そのユースケースを考えると、そもそも書籍で実現するよりも、PCやDSで実装したほうが、はるかにユーザビリティの高いものになるはずです。答え合わせ、解説の確認、間違えた問題はどれか、まだやっていない問題はどれか ... そんなの簡単にわかるし、弱点の客観的な把握なんてこともできるでしょう。

最後に1、なんですけど、これは動画など、メディアと表現手段に、それこそ e な発展はいくらでも望めそうなんですが、しかし、質的にはこれまでとそう大きく変わらないような気がするんですよね。むしろ、PC、ケータイ、DSによる記憶学習、テストの練習に書籍の参考書による概念学習を組みあわせるのが最良なんじゃないかとすら思います。

いや、ノートを作るのに、マインドマップを使ったり、UMLのクラス図やシーケンス図を書いてみるのは結構いいんじゃないかと思いますけどね。

ただ、記憶学習やテストの練習をやるためのアプリに学習データを設定するのは学習者自身ということにしてみると、ここにも e が入っていいことがあるんじゃないかと思うんです。

たとえば、試験範囲が発表されて、試験勉強期間の前半は、自分用にアプリのデータ作成、設定に励む。

その作業は、自然に教科書、ノート、参考書をひっくり返した概念学習(の復習)を含むことになるでしょう。概念学習を進めていく上でのフレームワークが手に入ります。

で、後半は自分でカスタマイズしたアプリを使い倒して試験本番に備えると。

そうしたらあれですね、さらに試験勉強期間のスケジュールとタスク管理ができる Trac のようなシステムもあるといいですね。

うーん、もう一度中学生や高校生に戻りたいなんて思ったことないけど、そういう道具立てが揃っているなら、もう一回くらい期末試験受けてみてもいいかな。実際どんなもんか。

いや、やだ、やっぱり、ちょっと考えてみたらいやでした。すみません。

ともかく、小学校5年の娘とドーナツ食いながら、そういうあたらしい中学生、高校生の学習スタイルみたいなのを提案できないかなと思ったわけです。
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2008年7月5日土曜日

そうか、帰りの電車とかで書け。

会社でさんざんPCに向かっているし、家にいる時間もあんまり多くないので自宅にPCは置いてません。深夜や早朝にトラブルがあって緊急対応を求められたときなんかは、まず近所のマンガ喫茶に走ります。

プライベートでは完全にネットから遠ざかっていて、仕事が終わってから自分の時間をつかってブログ書こうなんて思ったこともありませんでした。

でもきのう、糸井重里が「ほぼ日」の立ち上げの頃のことを書いた本をたまたま会社の本棚にみつけて、なんとなく手にとって読んでみて、やっぱり受注仕事だけでなく自社コンテンツや自社サービスでがんばってみたい、なんて思うのなら、仕事のあとでバンドやるとか、放課後のクラブ活動とか学園祭の準備とか、そういうかんじの時間をつかって、それ自体を楽しめないとだめだな、と思いました。

ただ、ほんと毎日くそ忙しく、いきなりすてきな活動時間を確保できるような気がまったくしてこないので、とりあえず、帰りがけの電車の中ででも、その日の会社の業務日誌Wikiに書けなかったこと、書ききれなかったことなんかをブログに投稿してみるくらいのところからはじめてみようかな、と。w-zero3のキーボードでなら結構楽に長文も入力できるし。

それにしても、講談社文庫「ほぼ日刊イトイ新聞の本 糸井重里」。これいい本ですね。出た当時の2001年よりもむしろ今年読んだのがよかったのかも。あと、ちょっと疲れ気味のWeb制作会社の社員として読んだのもよかったと思う。

という、まずはテスト投稿。
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