2009年3月27日金曜日

ユーザーの脳内へ

About Face 3 読書ノートの 8。

たとえば、テキストエディタなんかで、メニューを [ファイル] - [新規作成] と辿ると、目の前にまっさらな編集フィールドがばーんとひろがる。で、何か書く。

もしも、の話として、コンピューターリテラシーってやつがほとんどなくて、そこだけ切り取って体験させられたとすると、とにかくこの段階で、何か文字を書きつけられるファイルとかいうものがあって、それの新しいのがコンピューターの中に出来上がったんだろうと、そう思ったとしてもまず不思議ではないですよね。

で、まあ、そういうのをこれからもたくさん作れるとすると、ひとつひとつを区別して、あとで引っ張り出すことができるように、たぶん名前とかはつけなきゃいけないんだろうな、じゃあ名前はどこでつければいいんだろうな、なんてつらつら思ったり。

まさか、実際にできあがったものが、メモリ上に確保された一時的な作業バッファだなんて思いもよらない。

でも、実際そうなんだからってわけで、ふうふう言いながらあーでもないこーでもないと何やらびっしり書き込んで、よしできた、ってアプリケーションを閉じようとすると、保存しないんですか?なんて聞いてくる。

ときには、保存しないで終了すると、ここに書かれている内容は消滅しますよ? なんて脅されもして。

いやもう、ていうか、意味がわからないんですけど、って感じですよね。わざわざ新規作成!なんていわされて、今ここに現に拵えたものを、なんでそうやすやすと消そうとするわけ?いらなくなったら、こっちからお願いして消してもらうから、それまでは言わなくてもちゃんととっておいてくださいっ!てなもんです。

どうして、ソフトウェアにこういう分をわきまえない傲慢さが備わってしまうのか?それは、インタラクションデザインが実装レベルのシステム観にあまりにも素朴に従ってしまうからだと、About Face 3 はいっています。

ユーザーがシステムを使いこなすには、そのシステムがどんなメカニズムでどんな仕事をするものであるのか、おぼろげにしろ、なんらかのシステム観を抱く必要があるでしょう。

ユーザーは、自分が初心者であるうちの初期のインタラクションを通じて、自分なりのシステム観を徐々に組み上げていくはずです。複数のインタラクションのうちに、ある一貫性を感じ取り、それなりに整合のとれたシステムの全体像を心に描こうとするでしょう。

これを、About Face 3 は、システムに関するユーザーの脳内モデルと呼んでいます。

一方、インタラクションをデザインする側としては、システムを熟知した上で、これをうまく使いこなすために必要とされるであろうシステム観を設定して、それがユーザーにうまく伝わるように、インタラクション全体を統制していく必要があります。デザインする側にしたって、脳内にあるシステム観を抱くわけですね。

こちらは、ユーザーの脳内モデルに対して表現モデルと呼ばれます。

表現モデルがたいしたロスもなくすんなりユーザーの脳内に収まってくれればハッピーなわけですが、なかなかそれが難しい。というのも、システムの内部まで熟知した人が素直に表現モデルを作ると、たいてい実装レベルのシステム観、すなわち実装モデルに引きずられてしまうから。ファイルの新規作成をめぐる失礼な話のようにね、と。

だから、システムだけでなく、ユーザーのこともよく調べて熟知しなくちゃいけません。そして、ユーザーがゴールに最短距離で到達する上で余計に見えるような要素は、できるだけユーザーの脳内から取り除いていきましょう。ときには実装モデルを裏切ってでも、ユーザーが受け入れやすいモデルを拵えましょう。ということですね。そこらへんがたぶん、あえてユーザー中心デザインというスローガンを掲げたくなる思いの根本のところなんですよね。

ところで、このくだりは、ノーマンの「誰のためのデザイン?」にも出てくる話です。

ノーマンは、脳内モデルをユーザーモデル、表現モデルをデザイナーモデルと呼んでいました。ユーザーモデルというと、ターゲットのユーザー像みたいにも聞こえるんで、ユーザーの脳内モデルっていったほうがわかりやすいですよね。原書では User Mental Models とあるところを、脳内モデルと訳したのも傑作なんじゃないでしょうか。

それはともかく、まあ、なんと呼ぼうと、その二者をつなぐ媒介としてユーザーインターフェースの集合があって、これをノーマンはシステムイメージと呼んでいました。それは表現モデル=デザイナーモデルの反映であり、ユーザーが脳内モデルを作り上げるための材料でもあるわけですね。言語によるコミュニケーションでいえば言葉そのものです。

記号論風にいえば、言葉と言葉が示す意味内容の対応は恣意的であって、そこにコミュニケーションギャップの契機もひそむわけですけれども、ノーマンはそのへんを強調して、ここに深い溝が横たわっているんだということをデザイナーは自覚しなければならない、と、そんなふうに論を展開していたと記憶しています。(今、手元に「誰のためのデザイン?」がないんでうろ覚えです。すみません。)

一方、About Face 3 のほうは、ノーマンの指摘を踏まえた上で、そうしたコミュニケーションギャップのあり方の具体的な傾向として、実装モデル依存の問題を挙げている、と、そういうかんじですね。

ノーマンと About Face 3 のこのへんの重なり具合を図にしてみるとこんなかんじではないでしょうか。

また、About Face 3 では、表現モデルが陥りがちな罠として、実装モデル依存とは別にもうひとつ、情報化時代の前時代としての機械化時代への固執という問題を指摘しているんですが、これについてはまたエントリーを改めて書いてみたいと思います。

-----------------
sent from W-ZERO3

2009年3月18日水曜日

それはバルーンヘルプなのか?ツールチップなのか?

About Face 3 読書ノートの7。

バトコンって知ってます?ツールバーなんかに並んでるアイコンつきボタンのことをバトコンっていうそうです。

あんなの今までたんにアイコンだと思ってましたが、GUI部品としての振る舞いや役割はどちらかといえばボタンなんですね。でも、スペース効率や視認性をよくするために、テキストラベルではなくアイコンを用いてる、ってわけで、GUI部品の種別とそれぞれの特徴に神経質になると、純ボタンとも純アイコンとも言い難いようです。

それはともかく、で、このバトコンの上にマウスを合わせて一瞬だけ待つとバトコンのテキストラベルや機能の短い説明が表示されます。ツールチップですね。

これ、マイクロソフトが考えたそうですが、辛口な About Face 3 も、インタラクションデザインの発展に貢献することの少ないマイクロソフトにしては珍しく、これはいいアイディアだった、みたいなことをいって高評価なんですね。

先行する似たようなものに、バルーンヘルプがありました。こっちはアップルの発案なんですが、非常に評判が悪かったそうで。

両者の違いのひとつは、反応時間なんですね。ツールチップには表示されるまでに一瞬の間がある。この間があるんで、ふつうにクリックするぶんにはツールチップは表示されない。バトコンの存在も、それをクリックするとどうなるかもわかっている人にとって、ツールチップは存在しないも同然。

一方、バルーンヘルプのほうはオンマウスでただちに表示されちゃう。だからバルーンヘルプの表示を有効にしておくと、その気がなくてもどんどん開いちゃってうざくてしょうがない。

そして、その違いは、両者の存在理由をめぐるもっと大きい違いに根ざすというんですね。

アップルはバルーンヘルプで初心者にバトコンの意味を教えようとしたのに対し、マイクロソフトは、ひさしぶりに使ってバトコンの意味をうまく思い出せない人のために、ツールチップでヒントを与えようと考えたんだと。

バトコンをクリックしようとして、マウスをバトコンの上にもっていったんだけど、でもそこでためらって、いやちょっとまてよ、これでいいんだっけ、なんて思うその一瞬をみはからってツールチップを表示しているって、いやあ、芸が細かいですね。

そして、ツールチップ派のそういう発想がどこから出てくるのかというと、次のようなバトコン観。

バトコンというのは、いってみればメニューバーの特定の項目へのショートカット。それは、アプリケーションが提供する機能のラインアップをひととおり了解している中級者以上の人の便宜のためのUIなんであって、それをバルーンヘルプまで使ってくどくど初心者に説明する必要はない。

見た目にフレンドリーだからって、なんでも初心者向けだと思うのは短絡で、むしろ、まだ学ぶ段階にある人はメニューバーを使うもの。なぜなら、たいした脈絡もなく、たんによく使われるからという理由だけで並べられたバトコン群に比べれば、テキスト中心のメニューバーのほうが論理的で説明的であり、いちはやく初心者扱いから脱したいユーザーにとっては、こっちのほうがよっぽどフレンドリーだから。

まあ、そんな話が書いてあって、いやあ、なるほどなーと。やっぱりオンマウスのバルーンヘルプってアホだなー、アハハなんて笑ってました。

そんな折、ユーザーサポートをきっかけに、この話に近接するような自分の失敗が明るみに出まして。

ある語学の e ラーニング教材で自分の発音を確認するための録音機能を作ったんですけど、録音する際の UI がトランシーバー風とかいって、マイクのアイコンにマウスカーソルをポイントしてマウスダウンし続けている間、録音状態が継続、マウスアップすると録音終了ってやつで。

これ、録音開始/終了の操作がシンプルになるし、ボタン押しながらしゃべるっていうと、気持ちを集中して吹き込むって感じが強くでて、いい具合だったんです。

でも、UIとしては一般的ではない。使いこなすには学習が必要ってわけで、マイクのアイコンにオンマウスで表示されるバルーンヘルプをつけたんですよ。

でも、そうすると、録音開始のたびに一瞬ちらっとバルーンヘルプが見えてうざい。そこで、ツールチップ風にちょっとタイミングをずらそうと。

って、これが、まったく何を考えていたんだか、本当にバカのしわざです。

はじめから、オンマウスマウス状態で待ちかまえてヘルプが出てくるのを期待する人なんていないっての。上に書いたような一瞬のためらいにおけるツールチップ体験があって、その後、見知らぬバトコンに対してその意味を知るためにそうすることはあるにしても、少なくともここではありえない。

それに、一見してよくはわからないけど、アイコンにはたしかにマウスを持っていきたくなるようなアフォーダンスが備わっている場合、たいてい最初のトライはクリックですよね。間違ってもオンマウスではない。

で、クリックってのはこの場合、非常にクイックな録音開始と終了の連続指示、つまり一瞬の録音、ユーザーにしてみりゃ何も起こらなかったってことなんですよ。クリックに対してユーザーに有意義なフィードバックが何もない状態。バルーンヘルプが一瞬でも表示されていたほうがまだましだった。

そんなわけで、クリックしても何も起こらない、というクレームが寄せられたというわけでした。

やるなら、録音時間が一定の長さ未満で、ユーザーがクリックしてしまったとおぼしき場合にバルーンヘルプを表示すべきでしたね。

いや、常時表示のテキストでふつうに説明しておけばいいだけだった。

ああ、これCD-ROMで売ってるんで、今の在庫がはけないと直せないいんですよね...。

もちろん、ユーザーテストが十分じゃないためにこういう失敗を発見できなかったという失敗でもあるんですが、でも、バルーンヘルプとツールチップを比較しながら両者の成り立ちを学んだ今なら、そもそも、こんなアホな失敗はけっしてしないと思います。


-----------------
sent from W-ZERO3

2009年3月6日金曜日

ペルソナの見つけ方

About Face 3 読書ノートの6。

ユーザーインタビューをやれるだけやったら、その結果を分析して、これからはじまるデザイン作業に生かせるようなペルソナにまとめ上げるわけですね。

架空の人物を造形するなんてばかばかしいかんじもしますが、要するにインタビューで得られた知見をデザインの現場で取り扱いやすくするためのテクニックなんですよね。

プログラミングでも、設計の初期段階で、ドメインを構成する概念のモデリングをやって、概念モデル図や用語集を作ったりしますね。それでチーム全体のコミュニケーションが円滑になるようにするわけですけど、それに似てると思います。

プログラマーが概念を見つけてそれに名前を与えるように、デザイナーはゴールとコンテクストのパターンを見つけてそれらに人格を与えちゃう。で、馴れ馴れしくあいつ呼ばわりしながら、あいつが喜びそうなデザインを考えていこうと、こういうわけです。

集めたインタビューからペルソナを導き出す手順を、ごくあらっぽくまとめちゃうと、下のスライドのようなかんじになります。ほんとはもっといろいろありますけどね。でも、とりあえず、これくらいのあらすじで覚えといて、実践してみて、必要に応じて本を開けばいいんじゃないかと。

この中で肝になるのは、行動変数を見極めるってとこでしょうね。いってみれば似たもの同士をまとめていくわけですけど、何について似ているといえるのかの、その「何」を見つけていく作業。

これに限らず、グルーピングっていうのは一般に、何に着眼して、どんな基準にもとづいてってところが難しいもんです。中学受験の面積の問題みたいに、いかに有効な補助線を発見できるかっていう勝負に近いかも。

KJ法とかグループをなるべく合理的に発見していく手口もいろいろありますが、このへんはけっこうセンスとか勘がものをいうところじゃないでしょうか。ただ、センスだとか勘なんて、実際にはうろ覚えの経験の別名みたいなもんですから、その意味で、ユーザーに弟子入りするつもりで行うユーザーインタビュー、つまり、ユーザー体験の追体験が大事って話になるんでしょう。

手下にインタビューに行かせて、自分は安楽椅子探偵を気取ってオフィスでふんぞり返ってるなんてのはもっての他でしょうね。それやっちゃうと、たぶんペルソナが原型でも典型でもなくなって、たんなる紋切り型になっちゃいそうです。あるいは、自分が実際に手も体も動かしていた時代にみつけた自分なりに手応えのあったモデルに固執しちゃって、なんにでもそれを当てはめようとしちゃうとか。

ただ、いずれにしても、行動変数は、インタビューの軸でもあった、脳内モデル、コンテクスト、ゴール、ワークフロー、ツールをめぐるものにはなるでしょうね。スライドでは二次元の座標のイメージを使いましたけど、本当は、もうちょっと複雑になるはずですね。

-----------------
sent from W-ZERO3

2009年3月4日水曜日

間接税的なWeb

ごく身近な人が、なんとかしてWebのコンテンツを本や雑誌を読むように楽しめないものかと盛んに言うんです。それができないから、結局、なんか Web はつまんなくて本ばっかり読んじゃうんだよなーなんていって。

僕自身はふだん本は本、Web は Web、それぞれにいいところがあって、本か Web かなんていって一方が他方をまるっきり代替しちゃうなんてことはなく、本と Web でなんてすてきな組み合わせ、Web の話題に乗って本を手にとったり、本で読んだことを Web でフォローできたりで ( Web がなければこんなにいろんな人の書評やら感想文やらを読める世界なんて訪れなかったでしょう)、まったくよくできた相互補完だよねなんて思ってるくらいですから、そのごく身近な人の感嘆に共感はできなかったんですが、でも、あんまりしつこく言いつのるもんで、ではひとつ無理にでも関心を持って、そのいわんとするところの理解に努めてみようと、ちょっと考えてみたんですね。

で、まあ、いろいろあるんですが面倒なので一言でまとめちゃうと、ようするに、いっつもいっつも、検索したり、新着リストを追ったり、あるいは、その続き、ではなく、こっちもオススメなんてのに飛ばされて、いってもいっても、出てくるのは断片的な情報ばかり、そういうのがもうやりきれない、ってことなんですね。

いやいや、なにいってやがる、そこらあたりが Web のよかったところでしょってかんじですけれども、でもそうやって彼のやりきれない心を勝手に想像してみていたら、ふと、そういや自分もそんな気分になっているときがあるな、なんて思い当たっちゃいました。

いや、電車の中で暇つぶしにケータイのブラウザを開いているときとか。そういうときって、なんか探したり、新しいの見つけたりじゃなくて、雑誌でも読むみたいに、ちゃんと並べられたものを、次へ、次へで読んでいきたいなあ、なんて。それで青空文庫にいってみたりするんだけど、何読もうか探しているうちにもう着いちゃったりしてね。

ここのところ、ずーっとちびちび読んでるゴールダイレクテッドデザインの本、 「About Face 3」 に「間接税的作業」という言葉が出てきます。ゴールにダイレクトに向かうタスクではないんだけど、ゴールを目指すための地ならしとして、半ば義務的にやらざるをえないタスクのことです。そういうのはプログラマともよく相談してなるべく取り除いていきましょう、ってことなんですけど。たとえば今これ w-zero3 のメーラーで書いてるんですけども、ときにキータッチを誤ってみんな消しちゃうことがあるんですよね。だからときどき書くのを中断しては、まめに下書き保存するようにしてます。これはあきらかに間接税的作業ですね。

で、つまり、そのごく身近な人とか、電車に乗って暇を持て余してぼーっとしている僕なんかにとっては、検索性、更新可能性、膨大な相互参照ネットワークといったWebのいいところが、みんな間接税的な作業の発生源みたいに見えちゃってるんじゃないかと。同じ作業が、ペルソナやシナリオによっては、間接税的な作業になったりならなかったりっていうのはあって、この本に挙げられている例でいえば、中上級者にも強制される初心者向けウィザードなんてのがそれですね。

そういう観点にたってみて思い出されるのが、昔、はてなにあった Rimo ってサービスですね。YouTubeにアップされている動画からめぼしいのをピックアップして垂れ流しにしてくれるやつ。いくつかチャンネルがあって、こっちはチャンネルを合わせてぼーっと眺めていればいいって。

あれ、だめだったみたいですけど、たぶん、PCの前でハンターになってる人には合わなかっただけじゃないでしょうか。電車の中とか、見たいものを探す行為がなんだか間接税的な作業に思えてくるようなシーンに向けてだったら、もうちょいグッとくるかんじがしてくるかもしれませんよ。だから、Rimo 的なものが受け入れられる環境は、むしろ、これから整っていくんじゃないかな、なんて思います。

あと、最近始まったはてなブックマークニュースも、Rimo に近いものを感じますが、あれも思い切ってケータイ向けにしてですね、ケータイ変換のどさくさに紛れて共通のページネーションを挿入して、取り上げるブックマークをぜんぶ数珠つなぎにしちゃって、で、次へ、次へで見せてくれたらいいのにな、なんて思います。合間合間に、エディター側のコメントやら独自に取材した情報なんかを挟んでね。それで、ニュースというよりも、1テーマごと、もっとたっぷりのボリュームにして、なんかブルータスとか、そういうワンイシューマガジンをぱらぱら読んでいるようなかんじになるといいなあ、とか。無理ですかね。

いや、そうなってくると、僕の身近な人が読みたい Web っていうのに、少しは近づけるのかも知れないな、なんて思ったんですけどね。

そういえば、もう 10 年以上前に、Fresheye に達人のブックマークっていうのがあったな。

-----------------
sent from W-ZERO3

2009年2月19日木曜日

SNSはプロレス団体ではない

SNSは専門化していく、ってなんかよく聞きますけれども、すでにネットワーク外部性で他に勝っているコミュニティ系サービスの内部に、あるジャンルに特化した先鋭的なコミュニティがぽこぽこ生まれていくってのは当たり前のようにあっても、専門SNSのようなものがいっときのプロレス団体みたいに乱立していくってのは、あんまりありそうもないと思うんですよね。

ただ、なにかキラーなアプリとかソリューションがあって、その存在意義や価値にコミュニケーションを誘発する特性が備わっていたりすると、周囲にユーザーコミュニティが形成されていくことはあるでしょうね。iKnowとか、それこそニコニコ動画とか。

でも、人生において、そういう質的に特異なコミュニケーションが欲求されることなんてそうざらにあるもんじゃないわけで。あったらそれはたしかに燃えますよ、だから、万難を排してそれだけのコミュニティに参加もしよう。しかし、たいていは、もっとゆるい、同好の者同士のおしゃべりで満たされるようなコミュニケーションでよくて、いや、それがよくて、それで十分楽しいし、役にも立つ。そういうゆるいところに、へんなコミュニケーション強化ツールなんて提供されても意味がわからない。

で、そういう強化が必要なければ、あるいは、とおりいっぺんのコミュニケーション機能がふつうに提供されているだけでよければ、コミュニティ系サービスの価値はネットワーク外部性のみに左右されることになるんで、細分化よりもむしろ大きいところがより大きくなっていく、がトレンドになるんじゃないかな。

というわけで、はじめひとつの大きな大陸があって、それがだんだんばらけていくようなイメージとか、そういう全体的な傾向として専門化への流れがある、なんていえないと思います。流れは反対で、ただ、その流れとは無関係に、なんらかのソリューションと一体になった、特異な、島みたいなコミュニティが生まれることはありえる、って感じでしょ。

それから、so-net がやってるような誰でも主催できるSNSって、プライベート志向のやつ、ちょっとおもしろそうですけど、これも専門化うんぬんとはまた違いますよね。方向性として似ているように見えても、そもそも知っている者同士の了解ありきで始めて、その先の広がりにもほとんど期待はないとすると、ネットワーク外部性が介在する余地がない。

まあ、その、こんな情勢判断なんてやっても仕方ないような気もするんですが、ただ、あっけらかんと大きくは専門化の流れ、なんていって、そのおおざっぱな認識を根拠にして、とにかく専門化してればなんでもOKみたいな企画をたてちゃうとか、そういうのは厳に慎みたいなと思いまして、ちょっと書いてみて自分の頭を整理、ということで。おそまつ。


-----------------
sent from W-ZERO3

2009年2月11日水曜日

とっさのインタビューカード

About Face3 読書ノートの5。

なにしろ、まずは、質的なユーザー調査、ユーザーインタビューありきってわけなんですけども、実際問題、なかなか、そういうのをちゃんと計画して組織的に実施できる予算も空気もなかったりします。

だからってふてくされてても仕方なくて。そういう場合は、予算を握っている方々にそうした活動の意義と価値を一日も早く理解していただけるよう精力的に説得しつつですね、一方で、ユーザーインタビューなんてのは、もっとゲリラなかんじでやってカバーできる部分も案外多いかも、なんて、頭を切り替えてみるのも手なんじゃないかなって思いました。

だってね、職場の同僚とか、取引先の人とか、一緒に飲んでる人とか、いろんな人と話しているうちに、彼らのうちの誰かが、今デザインしようとしているプロダクトのユーザー候補だったことに気づくってのは、そんなにありえないことじゃないでしょう。

そういうとき、とっさにインタビューできるようにいつも準備しておくってのはこれ、実によい心がけじゃあないでしょうか。

About Face 3 によれば、ユーザーインタビューで、ユーザーから引き出したい情報は次のとおりだそうです。

引用します。

・製品(新製品をデザインしている場合は、類似システム)がユーザーの生活やワークフローに関わってくるコンテキスト。いつ、どのように、どんな理由で製品を使うのか。

・ユーザーの視点から見たドメインについての知識。ユーザーは、仕事をするために何を知っていなければならないのか。

・現在の作業と仕事全体。現在の製品が必要とされる仕事とサポートしていないことの両方。

・製品を使うにあたってのゴールとモチベーション。

・脳内モデル:ユーザーが自分の作業や仕事全般についてどう思っているか、製品に対してどのような期待を抱いているか。

・現在の製品(新製品をデザインしている場合は、類似システム)が抱える問題点、製品に対する不満。

引用終わります。

はい。以上のくだりを頭に入れておいて、で、これを一種のテンプレートにしてですね、後は相手と話題に身を委ねながら臨機応変に質問を繰り出せるようにしておけばいいわけです。

ただ、ちょっとこれだとサッと取り出しにくそうですね。なんで、自分のために自分で勝手にまとめてみました。質問の骨子は5枚のカード、ということにしておいて、このイメージを覚えておくっていうのはどうかなと。



ちなみに、インタビューイーには、ユーザー以外にも、クライアント(製品の購入者)、ステークホルダー(プロジェクト関係者)、SME(Subject Matter Experts = 対象ドメインにおける"その道のプロ")がいて、それぞれに聞くべきことがあるのですが、でも、ユーザーインタビューに比べれば単純です。

クライアントとステークホルダーから聞き出すべきことは、それぞれの立場でのビジネスとは何か?ということになります。ゴールだけでなく、各種の制約や条件も含めてね。

一方、その道のプロは、デザイナー自身が対象ドメインを学ぶ上での先生役といっていいんでしょう。

なんで、インタビューイーの種別のイメージとユーザーインタビュー用の5枚のカードを頭に入れておけば、たいていなんとかなるんじゃなかな。と、思うんですけどね。これ、どうでしょうね。

2009年2月4日水曜日

ゴールダイレクテッドX

About Face3 読書ノートの4。

ペルソナっていうと、つい、ユーザーの心の中を覗く、みたいなイメージをどっかで持ってしまって、そんなアテにならない話を、なんていう人もいるわけですけど、要するに、インタラクションデザインの確度を上げるための事前準備として、これからデザインするものが実際にどう使われるのか、そのパターンを洗い出しておきたいということですね。

ただ、使われ方のパターンを調べるっていっても、いきなり実現すべきユースケースにはどんなものがありますかって、誰かに聞きに行ってもダメなんで。だいたい、実現すべきユースケースをいいかんじに揃えていくことからしてデザインの仕事なわけですから。

そこで、これからデザインするものを魔法の製品Xとしておいてですね。いったんその中のことはブラックボックスにしておく。
で、その製品を使う人の動機や目的、人と製品をとりまくさまざまな状況や環境を明らかにしていこうじゃないかと。ペルソナとゴールとコンテクストですね。
それらがある程度わかっちゃえば、そこにずっぽりとハマるXとは一体何なのか?というはっきりとしたスタート地点に立って、デザインの検討をはじめることができるという寸法。

なんだかわけのわからないモヤモヤとはすっぱり縁を切って、すがすがしい風に吹かれてデザインしようよ。それがゴールダイレクテッド。

図にするとこんなかんじだと思います。



「民族誌学的インタビューが最優先事項としているのはユーザーのなぜ(ロールの異なる個人の行動を動機づけているものは何か、究極的にそのゴールをどのようにして達成したいと思っているのか)を理解することであり、ユーザーが実行している作業は何かを知ることではない」
っていうわけですね。

この本には、「民族誌学的インタビュー」と称したユーザーインタビューのしかたや、その結果を元にしたペスソナ/シナリオ法によるモデリングのしかたなんかがいろいろ丁寧に解説されているわけですけど、はじめっからあんまり気張らず、まずはこの絵のイメージで X 以外の事項を明らかにすることに集中して、ヒアリングなりモデリングなりをやってみるのがいいかな、と、思いました。

この段階でのアンチパターンは、Xだけがやけにはっきり見えちゃって、その周辺がいつまでたってもぼんやりしていることなんでしょうね。
その経験はくさるほどあります。