2008年11月27日木曜日

漢字かな交じり文が亡びるとき

「日本語が亡びるとき」を友達に借りて読みました。最後のほうは、なにかもう絶叫調といってもいいくらいの高いテンションで、日本語が亡びるのはフランス語が亡びるよりも人類にとってよほど大きな損失である、とか、読んでるほうがはらはらするようなファナティックな言いぐさもぽんぽん飛び出して、べつにこれは皮肉じゃなく、なんだかじつに楽しく読めました。

ただ、たんに楽しいだけじゃなく、漢字かな交じり文という書記システム自体が、ほかでもない日本の国語教育の楽天性を底で支えてもいる表音主義=音声中心主義の批判として意義を持つのだ、という指摘には、たしかに、と納得させられるものがありました。

世界中のどこででも、近代的な国民国家を作るときには、誰にでもすぐに使える共通語として、表音主義的な国語の整備、日本でいえば言文一致のようなことが行われます。それはいいんですけど、そこで、自然に話せる主体とはすなわち達者に書ける主体でもあるという錯覚が起きちゃうのか、たいして読まないくせに臆面もなく書く主体がのさばりはじめたりしちゃうわけです(いま、自分のことは棚に上げて書いています)。あげくのはてに誰もが感じたままに書けばそれでたちまちオンリーワンの価値が生まれるでしょう、なんて言い出す始末。

人は書記システムの制約の範囲内でしか思考できないのだから、書記システムの充実こそが文化全体の隆盛をもたらすといっても言い過ぎではない、としてですよ。ある文化の書記システムを鍛えるのは、優れた書き手によって脈々と書き継がれる歴史そのもの、そして、その優れた書き手を養うのは、書くことの前に、そうして書き継がれたものを読みこむ体験に他ならないでしょう。

だからかんたんに書く前にもっと読みなさいよ、そうしないと、日本語の書記システムはどんどん貧しくなってしまいますよ、と、こういうことですね。この本がいう国語から現地語への転落というのは、質の高い書記システムを失うということです。

こうした考えは、表音主義にもとづく錯覚から目覚め、ますは、日常の用のための口語と思考の道具としての書記システムを峻別して使い分けなければならないとする認識から生まれるわけですけれども、そのことを疑うのなら、ほら、この漢字かな交じり文の妙を見よ、と、こうなるわけです。たとえば、同じ語句を漢字、ひらがな、カタカナで書けて、それぞれに異なるニュアンスを託すことができるこの豊かさといったらどうだ、口で言って耳に聞くんじゃ、こうはまいりますまい?といった具合に。

でも、肝心の漢字かな交じり文の妙に関する説明がちょっと説得的じゃないんですよね。

この点については、柄谷行人の「日本精神分析」を読んだほうがいいと思います。

「日本精神分析」には、漢字かな交じり文の書記システムとしての特性が日本人の思考(日本精神)をどう規定してきたのかについての論考が含まれています。中華、西洋から外来する宗教や思想を取り込みつつ、それらを完全には日本のものとしない巧妙なからくりが漢字かな交じり文によって仕掛けられていたのではないかという話で、水村美苗がいうニュアンスの話も実はこのからくりの結果にすぎないといっていいと思います。

大学生のころ、この話にはじめて触れたとき、ふだん無意識に読み書きしている日本語を急に書記システムとして外から眺められるようになったような気がして、ずいぶん興奮した覚えがあります。「日本語が亡びるとき」を読んだすべての日本人は「日本精神分析」を読んだほうがいいような気がしないでもないですよ。

それから、「日本語が亡びるとき」で、さかんに批判されている「想像の共同体」のベネディクト・アンダーソンですけど、たしか柄谷行人と一緒にやった講演の内容が載った雑誌を昔買ったよなと思って家の中を探してみたら、埃をかぶったのがありました。「文学界 2000年10月号」。これに「創られた『国民言語』」という講演のために準備された論文が出てまして、柄谷行人が明らかにした漢字かな交じり文のからくりと同じようなことが、タイ語でも行われていたことなどが紹介されています。漢字とかなのように種類の違う文字を使うわけではないんですけど、綴りに特徴をもたせて外来語を区別したりするみたいなんです。

なんてかんじで、「日本語が亡びるとき」、昔の本を引っ張り出して読みたくなるほど、ぼくにとって刺激的な本だったことには間違いありませんでした。でも、帯で煽っているような、地政学を度外視するインターネットによってますます勢力を拡大する"英語帝国"の周縁にあって、はたして日本語は生き残ることができるのか、という本では、実はなかったと思います。それはむしろ話のきっかけにすぎなくて、そうした外的な情勢とは本質的には関わりのないところで、<書き言葉>としての日本語の質が失われていくことに警鐘を鳴らす内容といったほうが当たっているのではないでしょうか。

あ、あと、一章と二章は、外国人作家との出会いをつうじて、自分が日本語で書いていることに動揺してしまった日本人作家の姿を描いた短編小説としておもしろかったです。今はこの人の「続明暗」を読んでみたいです。


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