2010年1月7日木曜日

モーダルを選ぶキリコ

ぼくは今、総務部のおじさんたちのためのアプリケーションのことを考えている。彼らに与えられた仕事にかかる負荷を軽減しつつ、それでいてその効果を最大化することが求められている。そこで、ぼくはクーパーに習って、まず、彼らのゴールを探る。彼らのエンドゴールは、求められたことを、過不足なく、つつがなくやり遂げることである。エクスペリエンスゴールは、なるべくそれに煩わされることがなく、ほとんど機械的に済ませてしまえることである。ライフゴールは、だから、そんなつまらない仕事はさっさと終えて、もっと生き生きとした時間をより多く過ごすことである。つまり彼らは、これからぼくが考えるアプリケーションと共にする時間をなるべく短くしたいと考えていて、これ以上短くならないのなら、なるべく楽に、心を亡くしても無事にやり過ごせるようなものにしてほしいと願っている。

彼らはしかし、けっして馬鹿でも子羊でもコンドルの自由を知らない被抑圧階級の一員でもない。ただ、彼らの人生全般において、ぼくがこれから考えなければいけないアプリケーションのすべてが、クーパーのいう間接税にすぎないというだけのことだ。彼らの本当のライフゴールを支える道具は他にきっとある。

クーパーのゴールダイレクテッドデザインとは、反面から捉えていえば、間接税的操作の排除、もしくはその最小化だと言い換えていい。そのためのペルソナでありシナリオだ。しかし、自分がデザインしようとしている道具がまるごと間接税扱いされてしまう事態には触れていない("間接税的なポスチュア"というものもあるのではないか?)。ぼくはおそらく、総務部のおじさんたちのために、クーパーが忌み嫌う、徹頭徹尾モーダルな、ウィザード風のインターフェースを提案してしまうだろう。

この話の筋は、ひょっとすると、ドクターキリコの安楽死肯定論に似ているかもしれない。人の一生をもっと大きな何かの前で相対化することがキリコのニヒリズムだったろう。しかし皮肉なことに、キリコの最期はブラックジャックのヒューマニズム(人の一生の全体化)に感じ入りつつ、誰かの全体のために我が身を犠牲にすることで訪れる。(いや、ぎりぎりのところで、結局、ブラックジャックに助けられてしまうんだった!)

キリコのかたわらに、本間先生が姿を現してくれることはきっとなかったんだと思うよ。
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