2010年2月16日火曜日

不確かなメタファー

About Face 3 読書ノートの25。

いろいろと文句の多い アラン・クーパーと About Face 3 のみなさん、回を重ねるごとにますます意気軒昂ってわけで、今度の標的はメタファーかぶれのデザイナーなのです。

なんか、正しいメタファーを見つけることが仕事だなんて思ってるヒトたちっていますね。バカデスネ。なんて調子で、今回は、ちょっと冷笑的な態度で始まります。

そりゃ、ユーザーに内部の仕組みまで学ばせるような実装丸出しデザインよりはだいぶマシ。ただどうも、インタラクションデザインにおいてメタファーは過大評価されすぎているんじゃないかって。

うまいメタファーがあれば直感的に使えるようになるというけれども、冷静に考えてみて、インターフェースの学習を効率化する上でメタファーが果たす役割って案外ほんのちょっとじゃない?その割に、じつは弊害の方が結構多くって、あんまり利口なやり方じゃないと思うなあ、なんて言ってます。

たとえば、いまだによく見かけるフロッピーのアイコン。あれ、「保存する」ことを表現するメタファーってわけだけど、しかし今時フロッピーなんて、ねえ?若い子はもうそんなの見たことないだろうし、扱ってるファイルの容量からしても現実に見合わなかったり。下手したら保存先なんてネットワークの彼方かもしれないのに。

だから、作業結果を保存したい時はこれをクリックするんだってことを学ぶのに、もはやあの絵柄はまるで役に立ってないでしょ。たぶん、ツールチップかなんかで機能との対応を確認してみんな済ませてるんじゃない?

今でもあの絵柄の意味するところにへんに拘ると、考え込んだ挙句、なにか別のことを期待しちゃうかも知れなくて、かえってインタラクションデザイン上よろしくない。じゃあ、フロッピーよりももっとふさわしいメタファーを他に探せったって、これが案外難しい。

フロッピー的な発想はそのままで、もっとモダンなものをっていうと、ハードディスク?だけど、フロッピーと違って滅多に手にするものじゃないから、みんなが一発でそれとわかるような絵柄を決めるのは難しそうだし。

じゃあ、保存先のメディアじゃなくって、もっと概念的な、そうそう、ファイルとかフォルダってのは?って、そんなのもう「新規作成」とか「ファイルを開く」で使われちゃってるし、そんなら、デスクトップ・メタファーからも離れて、保存する、永続化するってことを表すみんなにお馴染みのイメージを探せって、えー、そんなのあります?なんてことになっちゃう。

まあ、しかし、なんだかんだで、あの絵柄と機能の対応を学んだ後では、とりあえず、その意味するところはあまり深く考えず、たんに他と区別するための記号として役立ってもらえればいいかと、そんな付き合い方になるんだろうけど、そういうのはメタファーじゃなくて、修辞学的にはシンボルって言ったほうがいいんじゃないの。

シンボルはその形状に頼ってシンボライズされる何かを表象するわけじゃない。形状と表象される内容の結びつきは恣意的なもので、その結びつきはそれとして学ぶしかない。って、あれ? メタファーを使うことの意味は、機能や目的を意識的に学ばずとも直感することじゃなかったっけ?

それに、フロッピーのメタファーなんて、それひとつだけとってみれば、非常にささやかなもんだから、シンボル的なものへの変わり身も早く済むだろうけど、こんなこと →
http://www.answers.com/topic/magic-cap になってたらどうする?シンボル的なものとして付き合うったって、あまりにも余りが多すぎるってなもんじゃない?

なんて、あのちっちゃいアイコンひとつつまみ上げて、軽くこんなかんじです。そういっぺんにいろいろ言われても、ぼくら、ただ圧倒されるだけでイヤハヤ、なんて心細くなってきますけれども ( だいぶ勝手に行間を読みまくった結果と言えばそれまでですが ) 、心配御無用、メタファーのなっとらんところを突き詰めると、だいたい次の四つのポイントにまとまるって話なんです。

クーパーは言います。( たぶん、両手を広げて肩をそびやかし、吐息まじりにノンノン言いいながら ... )

1) メタファーは足りない

いっとくけど、われわれの日常的な言葉づかいにメタファーは潤沢に溢れかえっているし、メタファーの効用はとてつもなく大きなものダヨ。About Face 3 に書いてあることなんてメタファーだらけだしネ。メタファーなしで同じ内容を人に伝えろって言われても困るヨ。

でも、インターフェースを学習するための方便としてはどうカナ?

アイテムの購入とか、リファレンスの検索、フォーマットの設定、写真解像度の変更、統計分析の実行 ... こういうアクションにぴったりのメタファーを探せって言われても、けっこうドンピシャのを見つけるのってムズカシくないデスカ?

あるいは、プロセスだとか、データやオブジェクト間の関係性だとか、なんらかの形式の変換だとか、いってみればコンピュータならではの物事って一体どんなメタファーで表現すればいいのカナ?

インタラクションデザインでいうメタファーって、たいてい、機能や目的を簡単な絵で表す、いわゆるビジュアルメタファーのことなのネ。

そうすると、当然、関係性だとか抽象的概念だとか、絵に書きにくいものは扱いにくいってことになるネ。で、わざわざコンピュータやらシステムやらを使って人間がやりたいことって、ケッコウそういうものが多いんダヨネ。

それにサ、そもそもワレワレがこれからデザインしようとしているモノは、三次元的な限界からも、機械化時代のパラダイムからも解き放たれた、人びとに力を与える全く新しいナニカなワケでショウ?

そういうモノを、そういうモノがなかった段階の物事で喩えようなんて、土台無理な話じゃナイ?

インターフェースデザインに使えるメタファーって、だからほんのチョットしかなくて当たり前なのヨ。

2) メタファーは通じないこともある

何が当たり前って、これこそホントに当たり前ッチャー当たり前の話ダケレドモ。同じ絵を見ても文化的背景が異なれば全く正反対の意味を読み取られてしまうこともないとはいえないよネ?

仮に文化的背景は共有していたとしてもダヨ、人それぞれの考え方、感じ方の違いってのはどうしても残るしネ。たとえば、デザイナーが飛行機の到着時刻をチェックするために用意したアイコンが、ユーザーには、飛行機のチケットを予約するためのアイコンに見えたりネ。

こんな不確かなものをインタラクションの基盤に据えようなんて、ネェ? やっぱりヤバイと思うヨ。

3) メタファーは変化についてこれない

フロッピーのことで言った最初の問題、そして最大の問題はこれだネ。みんながよく知ってる現実世界の何かとシステムの機能や目的の照応関係が、いったんは上手く馴染んでも、システムの成長や進化に、コレマタ当たり前だけどその現実世界の何かの方はついてきてくれないのヨ。

言い換えれば、メタファーにはスケーラビリティがないってことなんだけどネ。

喩えにも使えるほどみんながよく知ってる事柄ってことは間違いなくそこには不変性があるんだよネ。一方、システムのほうはその本性としてどんどん進化しちゃうのネ。

だから、システムとメタファーの恋ははじめから叶わないサダメなの。カナシイネ。

4) メタファーはすぐに邪魔になる

インタラクションデザインにおけるメタファーの役割はサ、意識的な学習なしで、直感的に、システムの目的や機能を把握できるようにするためにあるんだよネ。

じゃあサ、メタファーで伝えたかったことを把握しちゃった後はどうなのヨ。中級者にとっては、必ずしも必要のないお節介になりかねないよネ。

メタファーとしての役割を終えたら、ひっそりと、一種の識別子として生きていくのは、メタファーの処世術としてアリだと思うケド、インターフェース全体の隅々まで一貫して統一されたメタファーで説明しきるやり方、いわゆるグローバルメタファーみたいなヤツだとヤッカイダヨ。さっき出てきた MagicCap がそうだネ。下手すると、いつまでも消えない初心者向けウィーザード並のオーバーヘッドになってしまうヨ。

... と、とりあえず以上です。言われてみれば、たしかにごもっとも、イヤなるほどねぇーってかんじなんですが、じゃあ、一体なんだってそんなメタファーってやつがこんなに幅をきかせているんでしょうね?

そのことについて About Face 3 は、「インターフェースは直感的に使えるのがイチバン」という定言命法にいつの頃からかデザイナーが盲目的に従ってしまっているからだ、と 言っています。「チョッカンテキってナンダヨ?」って。

インタラクションデザインにおいて「直感的」であるということは、そもそもどういうことか?About Face 3 による説明を勝手にまとめるとこんなかんじになります。

直感とは、意識的に行われる思考を伴わない判断や洞察のこと。意識的に行われる思考を伴わないという点では、直感と本能はよく似ている。しかし、本能がまさに生まれつきによってこの場での意識的な思考をキャンセルするのに対し、直感は、過去に別のところで行われた学習に基づいてそうする点が異なる。

つまり、ゴミ箱のアイコンがあれば、不要なデータはそこに放りこめばいいのだと「直感的」にわかる。ただし、それがわかるのは、現実世界において、ゴミはゴミ箱へ捨てるということをすでに学んでいる人だけだってことですね。

で、ここからがかっこいい。

インタラクションデザインにおいてメタファーを使うってことは、過去にどこか別の場所で行われた、人それぞれの学習の結果に頼ることではないのか?それは、あまりにもアンコントローラブルな状態であって、本質的なところで「デザイン」とは相反するアプローチなのではないか。

... って、そこまでは言ってないか。でも、まあ、そういう方向で意気込んでですね、できるだけ、もっと正々堂々と、インタラクションの現場、デザインの力がおよぶ範囲で決着をつけたらどうかとAbout Face 3 は言うんです。

えー?でも、どうやって?

その答えがイディオム中心のデザインってやつで、じつはメタファーのシンボルへの転化ってとこにその萌芽が見られるなんてことも言えてですね、むしろ本題はここからなんですけど、ちょっと長くなるのでいったんここで切りますね。つづく。

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