自動車が発明された当初、自動なのはいいけれども、これをどうやって操縦するんだってことになって、とりあえず馬車とおんなじように手綱をつけてみたってのは本当にあった話なんだそうです。異様に心細そうで嫌ですけれども、About Face 3 によれば、インタラクションデザインにおいても、この手の失敗がおうおうにしてみられるんだとか。
ユーザーに抱いてもらうシステム観の原型として、あらかじめデザイナーが描いておくシステム観、それを表現モデルと呼ぶとして、その表現モデルが陥りがちな罠にはふたつある。
そのひとつは表現モデルの存在意義に無自覚なまま実装モデルをむき出しにしてしまって、ゴールにダイレクトに向かいたいユーザーにとってみれば余計な手間にしかみえない手続きを強要してしまうこと。これは、前のエントリーで紹介したとおりです。
もうひとつが、この自動車に手綱の話。
あたらしいテクノロジーにはそれにふさわしい操作の方法が考えられるべきなのに、他に何か似ているもの - ひょっとしたら前時代的といってもいいような、しかし、それだけにすでに慣れ親しんでもいるような何か - を探し出してきて、それをあっさりお手本にしてしまう。
ひとつめの罠とは違って、こちらは、表現モデルとしての自覚がないわけではないんですね。むしろありすぎるくらいで。表現欲は旺盛なんだけど、しかし、無意識のうちに慣習的な発想や思考のうちに仕事をまとめてしまう、とでもいうか。
また、ひとつめの罠が、使いにくさに関わるものだとすれば、こちらは、それ以前に、そもそも存在する価値に関わる問題といっていいかもしれません。だってね、ゴールにダイレクトなユーザーにとってみれば、手綱じゃ心細くてまともに操縦できねえよ、という感想は、たぶん簡単に、もうふつうに馬車でいいよ、って後退にもつながりかねない。
たとえば、About Face 3 は、このようなタイプの失敗例として、PIM のスケジューラが、あまりにも紙のカレンダーのデザインを踏襲しすぎていることを挙げています。一ヶ月ごとにページングするなんて、紙を使った表現での制約をわざわざ持ち込むことはないのに、と。(均質な時間の連続にそういうアヤをつけることには、積極的な効用があると思いますけどね)
紙での実装とは別のアプローチで、情報機器ならではの豊かなユーザー体験を提供できる状況が技術的には十分整っているのに、デザイナーのとった表現モデルが古くさいばっかりにすべてが台無しになってしまう。これなら今までどおり紙でいいじゃん、なんてね。
いや、カレンダーはいうほど悪くないんじゃないかと思いますが、この手の一種の倒錯は結構目につくような気もします。ネット上の動画コンテンツがサイズや見せ方の上でテレビ放送ならではの制約にしたがっていたり、Webサイトで「マガジン」を展開しようっていうと、紙の雑誌のレイアウトや編集方法をそのまんま模倣しようとしてしみたり。
媒体の物理的特性による制約をうけて、かつかつの工夫としてあった情報デザイン上のメソッドが、制約を離れて独り歩きし始めちゃう、ってパターンですね。
それと、他の何か似ているものを参照して表現モデルを作って失敗するパターンにはもうひとつありますね。現実世界のメタファーを使いすぎていて、結局、現実世界の手作業と同じくらい操作に手間がかかっちゃうってやつ。
なんか飛行機のチケットを買うための画面を開くと、本物そっくりの販売窓口みたいなビジュアルが表示されて、出てきたおねえさんが繰り出す質問に辛抱強く答えていくとやっとチケットを売ってもらえる、みたいな。そんな例が昔読んだユーザビリティー本に出てたような気がしますが、About Face 3 でも、これをメタファーの罠なんて呼んで、強く注意を喚起していました。
まあ、そんなわけで、前回のエントリーもふくめてちょっとまとめますと、デザイナーの表現モデルづくりは、デザイン対象のせっかくの技術的達成を台無しにもしかねない、大事な作業。失敗しないためには次の二つのことに常に注意をはらうべし。
すなわち、
ひとつ、奉仕の心を忘れてないか。実装モデルがむき出しになっていないか。
ひとつ、心を尽くしたつもりが、自動車に手綱をつけることに一生懸命になっていただけではなかったか。
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