2009年3月27日金曜日

ユーザーの脳内へ

About Face 3 読書ノートの 8。

たとえば、テキストエディタなんかで、メニューを [ファイル] - [新規作成] と辿ると、目の前にまっさらな編集フィールドがばーんとひろがる。で、何か書く。

もしも、の話として、コンピューターリテラシーってやつがほとんどなくて、そこだけ切り取って体験させられたとすると、とにかくこの段階で、何か文字を書きつけられるファイルとかいうものがあって、それの新しいのがコンピューターの中に出来上がったんだろうと、そう思ったとしてもまず不思議ではないですよね。

で、まあ、そういうのをこれからもたくさん作れるとすると、ひとつひとつを区別して、あとで引っ張り出すことができるように、たぶん名前とかはつけなきゃいけないんだろうな、じゃあ名前はどこでつければいいんだろうな、なんてつらつら思ったり。

まさか、実際にできあがったものが、メモリ上に確保された一時的な作業バッファだなんて思いもよらない。

でも、実際そうなんだからってわけで、ふうふう言いながらあーでもないこーでもないと何やらびっしり書き込んで、よしできた、ってアプリケーションを閉じようとすると、保存しないんですか?なんて聞いてくる。

ときには、保存しないで終了すると、ここに書かれている内容は消滅しますよ? なんて脅されもして。

いやもう、ていうか、意味がわからないんですけど、って感じですよね。わざわざ新規作成!なんていわされて、今ここに現に拵えたものを、なんでそうやすやすと消そうとするわけ?いらなくなったら、こっちからお願いして消してもらうから、それまでは言わなくてもちゃんととっておいてくださいっ!てなもんです。

どうして、ソフトウェアにこういう分をわきまえない傲慢さが備わってしまうのか?それは、インタラクションデザインが実装レベルのシステム観にあまりにも素朴に従ってしまうからだと、About Face 3 はいっています。

ユーザーがシステムを使いこなすには、そのシステムがどんなメカニズムでどんな仕事をするものであるのか、おぼろげにしろ、なんらかのシステム観を抱く必要があるでしょう。

ユーザーは、自分が初心者であるうちの初期のインタラクションを通じて、自分なりのシステム観を徐々に組み上げていくはずです。複数のインタラクションのうちに、ある一貫性を感じ取り、それなりに整合のとれたシステムの全体像を心に描こうとするでしょう。

これを、About Face 3 は、システムに関するユーザーの脳内モデルと呼んでいます。

一方、インタラクションをデザインする側としては、システムを熟知した上で、これをうまく使いこなすために必要とされるであろうシステム観を設定して、それがユーザーにうまく伝わるように、インタラクション全体を統制していく必要があります。デザインする側にしたって、脳内にあるシステム観を抱くわけですね。

こちらは、ユーザーの脳内モデルに対して表現モデルと呼ばれます。

表現モデルがたいしたロスもなくすんなりユーザーの脳内に収まってくれればハッピーなわけですが、なかなかそれが難しい。というのも、システムの内部まで熟知した人が素直に表現モデルを作ると、たいてい実装レベルのシステム観、すなわち実装モデルに引きずられてしまうから。ファイルの新規作成をめぐる失礼な話のようにね、と。

だから、システムだけでなく、ユーザーのこともよく調べて熟知しなくちゃいけません。そして、ユーザーがゴールに最短距離で到達する上で余計に見えるような要素は、できるだけユーザーの脳内から取り除いていきましょう。ときには実装モデルを裏切ってでも、ユーザーが受け入れやすいモデルを拵えましょう。ということですね。そこらへんがたぶん、あえてユーザー中心デザインというスローガンを掲げたくなる思いの根本のところなんですよね。

ところで、このくだりは、ノーマンの「誰のためのデザイン?」にも出てくる話です。

ノーマンは、脳内モデルをユーザーモデル、表現モデルをデザイナーモデルと呼んでいました。ユーザーモデルというと、ターゲットのユーザー像みたいにも聞こえるんで、ユーザーの脳内モデルっていったほうがわかりやすいですよね。原書では User Mental Models とあるところを、脳内モデルと訳したのも傑作なんじゃないでしょうか。

それはともかく、まあ、なんと呼ぼうと、その二者をつなぐ媒介としてユーザーインターフェースの集合があって、これをノーマンはシステムイメージと呼んでいました。それは表現モデル=デザイナーモデルの反映であり、ユーザーが脳内モデルを作り上げるための材料でもあるわけですね。言語によるコミュニケーションでいえば言葉そのものです。

記号論風にいえば、言葉と言葉が示す意味内容の対応は恣意的であって、そこにコミュニケーションギャップの契機もひそむわけですけれども、ノーマンはそのへんを強調して、ここに深い溝が横たわっているんだということをデザイナーは自覚しなければならない、と、そんなふうに論を展開していたと記憶しています。(今、手元に「誰のためのデザイン?」がないんでうろ覚えです。すみません。)

一方、About Face 3 のほうは、ノーマンの指摘を踏まえた上で、そうしたコミュニケーションギャップのあり方の具体的な傾向として、実装モデル依存の問題を挙げている、と、そういうかんじですね。

ノーマンと About Face 3 のこのへんの重なり具合を図にしてみるとこんなかんじではないでしょうか。

また、About Face 3 では、表現モデルが陥りがちな罠として、実装モデル依存とは別にもうひとつ、情報化時代の前時代としての機械化時代への固執という問題を指摘しているんですが、これについてはまたエントリーを改めて書いてみたいと思います。

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