D箱のアシスト事件
第1夜. DraftPad とセーブ
ファイルでもアプリでもない、あえて言うなら、永久に不滅の作業バッファ? いや、DraftPad と呼ぶほかはない、テキストのヘイヴン。一枚の紙だから、New も Open もない。一枚の紙だけど、一種のタイムマシンでもあって、過去の好きな時点の状態にいつでも戻ることができる。だから、Save だっていらない。
それが DraftPad の哲学で、ぼくはその哲学がとても好きだ。好きだ、好きだ、好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。
それにひきかえ、どうだ。ファイルシステムだって? すべてを「新規作成」し、「保存」し、「開く」世界。
いや、まあ、それもいいだろう。しかし、なんでもかんでも、いちいちその調子で押し通す必要はなかったんだ。むしろ、ほとんどのことは DraftPad 的に済ますことができたはずだ。すっかり騙されていた。
特に、セーブだなんてひどいじゃないか。
それは本当に、救い出すという意味だった。気取ったメタファーなんかじゃない。いつ消えてもおかしくないまぼろしのような作業バッファから、大切な成果を、もっと安全な場所に小まめに救い出しておく必要があった。
句点を打ったり、段落を変えたりするたびに、指が勝手に動いて、ほとんど無意識のうちにセーブしてしまう。心身の延長としての道具ではなく、いつの間にかこちらが、道具の延長になっていた。
そんな悪夢を見せられていたぼくらの目を覚まし、そこから救い出してくれたのが DraftPad という発明だ。もはや作業バッファこそが安息の地、ここからどこかにセーブすることのほうが危ない橋を渡ることのように思えるくらいだから、もうそれをセーブと呼ぶのはおかしい。
ところが、セーブという言葉にはもうひとつ、いまあるものを手放さずにとっておく、というニュアンスも含まれていて、この安息の地に立ってみると、そちらのほうの意味がぐんと際立ってくる。
無限に拡がる一枚の紙に書かれた言葉は、けっして失われてしまうことはないけれど、ただ、書けば書くほど、それらは次第に遠ざかっていく。紙は無限だけど、ぼくには限りがある。ぼくの手が届く範囲なんて、たかが知れている。
すると、無限の一枚の紙の、いま書いたところだけをビリっとちぎって、ちょっとわきにとっておき、必要になったらいつでもさっと手元に戻すことができるような、そんなセーブをしてみたくなる。
それは、そう、いまならタギングとか、スナップショットをとるとか、そんなふうに呼んだほうがふさわしい行為かもしれない。でもいいだろう、あえてセーブと呼び続けようじゃないか。言葉はおなじだけど、意味するところはすっかり変わってしまった。そこに、DraftPad の凄みを感じていくことにしよう。
――― と、そんなわけで、ぼくは、そういう意味でのセーブを、 DraftPad に付け足してみたくなったのです。
つづく。
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