2009年4月24日金曜日

シナリオ重要。

About Face 3 読書ノートの 10。

Web アプリケーションを開発するプロジェクトで、ワイヤーフレームとか、あるいは、モックアップやプロトタイプなんかを作ってクライアントにレビューしてもらっていると、クライアントがじーっと何かを考えはじめて動かなくなることってありませんか。ここをこうさわるとこうなって、なんて一連のインタラクションを説明して、これまでの打ち合わせで確認してきた要求はこれで満たせますでしょうか、いかがでしょうか、って段になると、じー。

これでいいですか?って判断を求められたクライアントが何に思いを馳せて固まっているのかというと、たいていは、実際の利用シーンを総まくり総点検中ってかんじじゃないかと思うんですよね。じー、の後は、じゃ、こういう場合はどうなるの? いや、実はこんな人がいてね、それで、こんな事情があってね、なんて話になることが多い。

こちらは、はい、その場合はですね、画面の操作はこうなってこうなります、これは、ユースケースでいえばここの部分にあたりまして、概念モデルのこれに関する操作です。で、その流れを詳しく記述したのが、こちらのシーケンス図になるんですけど、それは以前ご説明させていただいたとおりです。なんてやっちゃう。

しかし、これって、ナントカ図、ナントカ図っていろいろ書いてみるんだけど、結局、あるべきシステムのイメージのおおもとをちゃんと見える化できてないってことなのかも知れないなあ、なんて最近よく思うんですよね。

ユースケースにしたって、概念モデルにしたって、それらは要求を分析して実装の要件を把握するためのツール、ある観点、水準でのシステムイメージのビューのひとつにすぎないわけで。みんなそれぞれに有用ではあるんだけど、これでいけるかなって最後の判断を下すときに参照したくなるような、なんというか、おおもと感がない。全部を総合したとしても、たぶんそれは出てこないでしょうね。

そう考えてみると、おおもと感のあるシステムイメージそのものはクライアントにしろ、われわれにしろ、各自がめいめいに勝手に思い浮かべてるだけなんですよね。それなのに、その派生物のほうはなぜか目に見えて共有されてもいるっていうこの状況、ちょっと倒錯してるようななかんじがしますね。

もう、面倒だから、今、クライアントがじーっと考えていたイメージのほうを先に書いとこうぜ、って言いたくなってきます。ユースケースがそれにもっとも近いんだろうけど、もっと生々しいかんじでしょう。

たとえば、あー、これだと総務の鈴木さんみたいな人が使うにしては、操作がちょっとややこしいかもなあ、なんかボタンも小さくて目立たないしなー、なんかこのままじゃ、ぶーぶー言われそうだなーなんて、漠然とにしろ、その鈴木さんという人の日々の仕事ぶりを思い出しながら、オフィスで彼がこの画面に向かっている場面を心のうちに思い描いてるんじゃないかと思うんですよね。

なら、素直にまず鈴木さんの利用シーンの想定をみんなで共有して、それから鈴木さんに喜ばれるにはどうしたらいいかってことで設計を進めたほうがいいんじゃないか。

そうすれば、じーっとする代わりに、鈴木さんの利用シーンが描かれたシナリオを追いながら、ワイヤーフレームやモックアップ、プロトタイプで示されたインタラクションが、本当にこれでいいのかって点検していけるわけですから。

って、それが、つまり、ペルソナ/シナリオ法なわけですよね。

わりと、ペルソナって言葉がバズっぽく一人歩きしている感がありますが、むしろ強調されるべきは、シナリオを書くってこと、シナリオドリブンでプロジェクトを動かしていくことなんじゃないかと思います。

質的なユーザー調査の結果を何人かのペルソナというかたちでまとめたら、各ペルソナが一体どんな状況の下でどんなゴールに向かって活動するのか、そこにこれからデザインするものがどう関わっていくのかを端的で短い物語にしてみる。

インタビューからペルソナを作るまでの一連の作業においては、実はこれからデザインするもののことを考えないこと、それをいったん魔法のツールXとして措いておいて、その周囲、Xがすっぽりハマるコンテクストを探ることに専念する、そうした禁欲的な態度でのぞむところにコツがあったわけですけれども、シナリオを書く段階にはいって、やっと、これからデザインするもののことを考えられるようになるわけですね。

そして、


●シナリオを分析することでニーズ=要件が定義されます。

●シナリオからユースケースや概念モデルが抽象され、実装設計に対するインプットとなります。
(この点は About Face 3 では触れられていないんですが。)

●シナリオに適合するようにしてシステム全体のインタラクションがデザインされます。

●そうして出来上がったものは、シナリオによって品質がチェックされます。


というわけですから、まさにシナリオ重要。です。

About Face 3 流ペルソナ/シナリオ法では、目的別に大小さまざまなタイプのシナリオを書きます。コンテクストシナリオ、キーパスシナリオ、チェックシナリオとあって、チェックシナリオが、キーパスバリアント、必須パス、エッジケースの各シナリオに分かれて。

それぞれ、実際、どうやって書くけばいいものなのか興味のあるところなんで、ここのところは細かく刻んで、ちょっと丁寧にノートにしていこうかな、と思ってます。あと、シナリオとユースケースの違いとかもちゃんと考えてみようかな、なんて。

しかし、このペースでは、About Face 3 一冊フォローするのに、一年くらいかかっちゃいそうな気がしてきた。

まあ、いいか。

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2009年4月9日木曜日

自動車に手綱をつける話

About Face 3 読書ノートの 9。

自動車が発明された当初、自動なのはいいけれども、これをどうやって操縦するんだってことになって、とりあえず馬車とおんなじように手綱をつけてみたってのは本当にあった話なんだそうです。異様に心細そうで嫌ですけれども、About Face 3 によれば、インタラクションデザインにおいても、この手の失敗がおうおうにしてみられるんだとか。

ユーザーに抱いてもらうシステム観の原型として、あらかじめデザイナーが描いておくシステム観、それを表現モデルと呼ぶとして、その表現モデルが陥りがちな罠にはふたつある。

そのひとつは表現モデルの存在意義に無自覚なまま実装モデルをむき出しにしてしまって、ゴールにダイレクトに向かいたいユーザーにとってみれば余計な手間にしかみえない手続きを強要してしまうこと。これは、前のエントリーで紹介したとおりです。

もうひとつが、この自動車に手綱の話。

あたらしいテクノロジーにはそれにふさわしい操作の方法が考えられるべきなのに、他に何か似ているもの - ひょっとしたら前時代的といってもいいような、しかし、それだけにすでに慣れ親しんでもいるような何か - を探し出してきて、それをあっさりお手本にしてしまう。

ひとつめの罠とは違って、こちらは、表現モデルとしての自覚がないわけではないんですね。むしろありすぎるくらいで。表現欲は旺盛なんだけど、しかし、無意識のうちに慣習的な発想や思考のうちに仕事をまとめてしまう、とでもいうか。

また、ひとつめの罠が、使いにくさに関わるものだとすれば、こちらは、それ以前に、そもそも存在する価値に関わる問題といっていいかもしれません。だってね、ゴールにダイレクトなユーザーにとってみれば、手綱じゃ心細くてまともに操縦できねえよ、という感想は、たぶん簡単に、もうふつうに馬車でいいよ、って後退にもつながりかねない。

たとえば、About Face 3 は、このようなタイプの失敗例として、PIM のスケジューラが、あまりにも紙のカレンダーのデザインを踏襲しすぎていることを挙げています。一ヶ月ごとにページングするなんて、紙を使った表現での制約をわざわざ持ち込むことはないのに、と。(均質な時間の連続にそういうアヤをつけることには、積極的な効用があると思いますけどね)

紙での実装とは別のアプローチで、情報機器ならではの豊かなユーザー体験を提供できる状況が技術的には十分整っているのに、デザイナーのとった表現モデルが古くさいばっかりにすべてが台無しになってしまう。これなら今までどおり紙でいいじゃん、なんてね。

いや、カレンダーはいうほど悪くないんじゃないかと思いますが、この手の一種の倒錯は結構目につくような気もします。ネット上の動画コンテンツがサイズや見せ方の上でテレビ放送ならではの制約にしたがっていたり、Webサイトで「マガジン」を展開しようっていうと、紙の雑誌のレイアウトや編集方法をそのまんま模倣しようとしてしみたり。

媒体の物理的特性による制約をうけて、かつかつの工夫としてあった情報デザイン上のメソッドが、制約を離れて独り歩きし始めちゃう、ってパターンですね。

それと、他の何か似ているものを参照して表現モデルを作って失敗するパターンにはもうひとつありますね。現実世界のメタファーを使いすぎていて、結局、現実世界の手作業と同じくらい操作に手間がかかっちゃうってやつ。

なんか飛行機のチケットを買うための画面を開くと、本物そっくりの販売窓口みたいなビジュアルが表示されて、出てきたおねえさんが繰り出す質問に辛抱強く答えていくとやっとチケットを売ってもらえる、みたいな。そんな例が昔読んだユーザビリティー本に出てたような気がしますが、About Face 3 でも、これをメタファーの罠なんて呼んで、強く注意を喚起していました。

まあ、そんなわけで、前回のエントリーもふくめてちょっとまとめますと、デザイナーの表現モデルづくりは、デザイン対象のせっかくの技術的達成を台無しにもしかねない、大事な作業。失敗しないためには次の二つのことに常に注意をはらうべし。

すなわち、


ひとつ、奉仕の心を忘れてないか。実装モデルがむき出しになっていないか。

ひとつ、心を尽くしたつもりが、自動車に手綱をつけることに一生懸命になっていただけではなかったか。


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2009年3月27日金曜日

ユーザーの脳内へ

About Face 3 読書ノートの 8。

たとえば、テキストエディタなんかで、メニューを [ファイル] - [新規作成] と辿ると、目の前にまっさらな編集フィールドがばーんとひろがる。で、何か書く。

もしも、の話として、コンピューターリテラシーってやつがほとんどなくて、そこだけ切り取って体験させられたとすると、とにかくこの段階で、何か文字を書きつけられるファイルとかいうものがあって、それの新しいのがコンピューターの中に出来上がったんだろうと、そう思ったとしてもまず不思議ではないですよね。

で、まあ、そういうのをこれからもたくさん作れるとすると、ひとつひとつを区別して、あとで引っ張り出すことができるように、たぶん名前とかはつけなきゃいけないんだろうな、じゃあ名前はどこでつければいいんだろうな、なんてつらつら思ったり。

まさか、実際にできあがったものが、メモリ上に確保された一時的な作業バッファだなんて思いもよらない。

でも、実際そうなんだからってわけで、ふうふう言いながらあーでもないこーでもないと何やらびっしり書き込んで、よしできた、ってアプリケーションを閉じようとすると、保存しないんですか?なんて聞いてくる。

ときには、保存しないで終了すると、ここに書かれている内容は消滅しますよ? なんて脅されもして。

いやもう、ていうか、意味がわからないんですけど、って感じですよね。わざわざ新規作成!なんていわされて、今ここに現に拵えたものを、なんでそうやすやすと消そうとするわけ?いらなくなったら、こっちからお願いして消してもらうから、それまでは言わなくてもちゃんととっておいてくださいっ!てなもんです。

どうして、ソフトウェアにこういう分をわきまえない傲慢さが備わってしまうのか?それは、インタラクションデザインが実装レベルのシステム観にあまりにも素朴に従ってしまうからだと、About Face 3 はいっています。

ユーザーがシステムを使いこなすには、そのシステムがどんなメカニズムでどんな仕事をするものであるのか、おぼろげにしろ、なんらかのシステム観を抱く必要があるでしょう。

ユーザーは、自分が初心者であるうちの初期のインタラクションを通じて、自分なりのシステム観を徐々に組み上げていくはずです。複数のインタラクションのうちに、ある一貫性を感じ取り、それなりに整合のとれたシステムの全体像を心に描こうとするでしょう。

これを、About Face 3 は、システムに関するユーザーの脳内モデルと呼んでいます。

一方、インタラクションをデザインする側としては、システムを熟知した上で、これをうまく使いこなすために必要とされるであろうシステム観を設定して、それがユーザーにうまく伝わるように、インタラクション全体を統制していく必要があります。デザインする側にしたって、脳内にあるシステム観を抱くわけですね。

こちらは、ユーザーの脳内モデルに対して表現モデルと呼ばれます。

表現モデルがたいしたロスもなくすんなりユーザーの脳内に収まってくれればハッピーなわけですが、なかなかそれが難しい。というのも、システムの内部まで熟知した人が素直に表現モデルを作ると、たいてい実装レベルのシステム観、すなわち実装モデルに引きずられてしまうから。ファイルの新規作成をめぐる失礼な話のようにね、と。

だから、システムだけでなく、ユーザーのこともよく調べて熟知しなくちゃいけません。そして、ユーザーがゴールに最短距離で到達する上で余計に見えるような要素は、できるだけユーザーの脳内から取り除いていきましょう。ときには実装モデルを裏切ってでも、ユーザーが受け入れやすいモデルを拵えましょう。ということですね。そこらへんがたぶん、あえてユーザー中心デザインというスローガンを掲げたくなる思いの根本のところなんですよね。

ところで、このくだりは、ノーマンの「誰のためのデザイン?」にも出てくる話です。

ノーマンは、脳内モデルをユーザーモデル、表現モデルをデザイナーモデルと呼んでいました。ユーザーモデルというと、ターゲットのユーザー像みたいにも聞こえるんで、ユーザーの脳内モデルっていったほうがわかりやすいですよね。原書では User Mental Models とあるところを、脳内モデルと訳したのも傑作なんじゃないでしょうか。

それはともかく、まあ、なんと呼ぼうと、その二者をつなぐ媒介としてユーザーインターフェースの集合があって、これをノーマンはシステムイメージと呼んでいました。それは表現モデル=デザイナーモデルの反映であり、ユーザーが脳内モデルを作り上げるための材料でもあるわけですね。言語によるコミュニケーションでいえば言葉そのものです。

記号論風にいえば、言葉と言葉が示す意味内容の対応は恣意的であって、そこにコミュニケーションギャップの契機もひそむわけですけれども、ノーマンはそのへんを強調して、ここに深い溝が横たわっているんだということをデザイナーは自覚しなければならない、と、そんなふうに論を展開していたと記憶しています。(今、手元に「誰のためのデザイン?」がないんでうろ覚えです。すみません。)

一方、About Face 3 のほうは、ノーマンの指摘を踏まえた上で、そうしたコミュニケーションギャップのあり方の具体的な傾向として、実装モデル依存の問題を挙げている、と、そういうかんじですね。

ノーマンと About Face 3 のこのへんの重なり具合を図にしてみるとこんなかんじではないでしょうか。

また、About Face 3 では、表現モデルが陥りがちな罠として、実装モデル依存とは別にもうひとつ、情報化時代の前時代としての機械化時代への固執という問題を指摘しているんですが、これについてはまたエントリーを改めて書いてみたいと思います。

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2009年3月18日水曜日

それはバルーンヘルプなのか?ツールチップなのか?

About Face 3 読書ノートの7。

バトコンって知ってます?ツールバーなんかに並んでるアイコンつきボタンのことをバトコンっていうそうです。

あんなの今までたんにアイコンだと思ってましたが、GUI部品としての振る舞いや役割はどちらかといえばボタンなんですね。でも、スペース効率や視認性をよくするために、テキストラベルではなくアイコンを用いてる、ってわけで、GUI部品の種別とそれぞれの特徴に神経質になると、純ボタンとも純アイコンとも言い難いようです。

それはともかく、で、このバトコンの上にマウスを合わせて一瞬だけ待つとバトコンのテキストラベルや機能の短い説明が表示されます。ツールチップですね。

これ、マイクロソフトが考えたそうですが、辛口な About Face 3 も、インタラクションデザインの発展に貢献することの少ないマイクロソフトにしては珍しく、これはいいアイディアだった、みたいなことをいって高評価なんですね。

先行する似たようなものに、バルーンヘルプがありました。こっちはアップルの発案なんですが、非常に評判が悪かったそうで。

両者の違いのひとつは、反応時間なんですね。ツールチップには表示されるまでに一瞬の間がある。この間があるんで、ふつうにクリックするぶんにはツールチップは表示されない。バトコンの存在も、それをクリックするとどうなるかもわかっている人にとって、ツールチップは存在しないも同然。

一方、バルーンヘルプのほうはオンマウスでただちに表示されちゃう。だからバルーンヘルプの表示を有効にしておくと、その気がなくてもどんどん開いちゃってうざくてしょうがない。

そして、その違いは、両者の存在理由をめぐるもっと大きい違いに根ざすというんですね。

アップルはバルーンヘルプで初心者にバトコンの意味を教えようとしたのに対し、マイクロソフトは、ひさしぶりに使ってバトコンの意味をうまく思い出せない人のために、ツールチップでヒントを与えようと考えたんだと。

バトコンをクリックしようとして、マウスをバトコンの上にもっていったんだけど、でもそこでためらって、いやちょっとまてよ、これでいいんだっけ、なんて思うその一瞬をみはからってツールチップを表示しているって、いやあ、芸が細かいですね。

そして、ツールチップ派のそういう発想がどこから出てくるのかというと、次のようなバトコン観。

バトコンというのは、いってみればメニューバーの特定の項目へのショートカット。それは、アプリケーションが提供する機能のラインアップをひととおり了解している中級者以上の人の便宜のためのUIなんであって、それをバルーンヘルプまで使ってくどくど初心者に説明する必要はない。

見た目にフレンドリーだからって、なんでも初心者向けだと思うのは短絡で、むしろ、まだ学ぶ段階にある人はメニューバーを使うもの。なぜなら、たいした脈絡もなく、たんによく使われるからという理由だけで並べられたバトコン群に比べれば、テキスト中心のメニューバーのほうが論理的で説明的であり、いちはやく初心者扱いから脱したいユーザーにとっては、こっちのほうがよっぽどフレンドリーだから。

まあ、そんな話が書いてあって、いやあ、なるほどなーと。やっぱりオンマウスのバルーンヘルプってアホだなー、アハハなんて笑ってました。

そんな折、ユーザーサポートをきっかけに、この話に近接するような自分の失敗が明るみに出まして。

ある語学の e ラーニング教材で自分の発音を確認するための録音機能を作ったんですけど、録音する際の UI がトランシーバー風とかいって、マイクのアイコンにマウスカーソルをポイントしてマウスダウンし続けている間、録音状態が継続、マウスアップすると録音終了ってやつで。

これ、録音開始/終了の操作がシンプルになるし、ボタン押しながらしゃべるっていうと、気持ちを集中して吹き込むって感じが強くでて、いい具合だったんです。

でも、UIとしては一般的ではない。使いこなすには学習が必要ってわけで、マイクのアイコンにオンマウスで表示されるバルーンヘルプをつけたんですよ。

でも、そうすると、録音開始のたびに一瞬ちらっとバルーンヘルプが見えてうざい。そこで、ツールチップ風にちょっとタイミングをずらそうと。

って、これが、まったく何を考えていたんだか、本当にバカのしわざです。

はじめから、オンマウスマウス状態で待ちかまえてヘルプが出てくるのを期待する人なんていないっての。上に書いたような一瞬のためらいにおけるツールチップ体験があって、その後、見知らぬバトコンに対してその意味を知るためにそうすることはあるにしても、少なくともここではありえない。

それに、一見してよくはわからないけど、アイコンにはたしかにマウスを持っていきたくなるようなアフォーダンスが備わっている場合、たいてい最初のトライはクリックですよね。間違ってもオンマウスではない。

で、クリックってのはこの場合、非常にクイックな録音開始と終了の連続指示、つまり一瞬の録音、ユーザーにしてみりゃ何も起こらなかったってことなんですよ。クリックに対してユーザーに有意義なフィードバックが何もない状態。バルーンヘルプが一瞬でも表示されていたほうがまだましだった。

そんなわけで、クリックしても何も起こらない、というクレームが寄せられたというわけでした。

やるなら、録音時間が一定の長さ未満で、ユーザーがクリックしてしまったとおぼしき場合にバルーンヘルプを表示すべきでしたね。

いや、常時表示のテキストでふつうに説明しておけばいいだけだった。

ああ、これCD-ROMで売ってるんで、今の在庫がはけないと直せないいんですよね...。

もちろん、ユーザーテストが十分じゃないためにこういう失敗を発見できなかったという失敗でもあるんですが、でも、バルーンヘルプとツールチップを比較しながら両者の成り立ちを学んだ今なら、そもそも、こんなアホな失敗はけっしてしないと思います。


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2009年3月6日金曜日

ペルソナの見つけ方

About Face 3 読書ノートの6。

ユーザーインタビューをやれるだけやったら、その結果を分析して、これからはじまるデザイン作業に生かせるようなペルソナにまとめ上げるわけですね。

架空の人物を造形するなんてばかばかしいかんじもしますが、要するにインタビューで得られた知見をデザインの現場で取り扱いやすくするためのテクニックなんですよね。

プログラミングでも、設計の初期段階で、ドメインを構成する概念のモデリングをやって、概念モデル図や用語集を作ったりしますね。それでチーム全体のコミュニケーションが円滑になるようにするわけですけど、それに似てると思います。

プログラマーが概念を見つけてそれに名前を与えるように、デザイナーはゴールとコンテクストのパターンを見つけてそれらに人格を与えちゃう。で、馴れ馴れしくあいつ呼ばわりしながら、あいつが喜びそうなデザインを考えていこうと、こういうわけです。

集めたインタビューからペルソナを導き出す手順を、ごくあらっぽくまとめちゃうと、下のスライドのようなかんじになります。ほんとはもっといろいろありますけどね。でも、とりあえず、これくらいのあらすじで覚えといて、実践してみて、必要に応じて本を開けばいいんじゃないかと。

この中で肝になるのは、行動変数を見極めるってとこでしょうね。いってみれば似たもの同士をまとめていくわけですけど、何について似ているといえるのかの、その「何」を見つけていく作業。

これに限らず、グルーピングっていうのは一般に、何に着眼して、どんな基準にもとづいてってところが難しいもんです。中学受験の面積の問題みたいに、いかに有効な補助線を発見できるかっていう勝負に近いかも。

KJ法とかグループをなるべく合理的に発見していく手口もいろいろありますが、このへんはけっこうセンスとか勘がものをいうところじゃないでしょうか。ただ、センスだとか勘なんて、実際にはうろ覚えの経験の別名みたいなもんですから、その意味で、ユーザーに弟子入りするつもりで行うユーザーインタビュー、つまり、ユーザー体験の追体験が大事って話になるんでしょう。

手下にインタビューに行かせて、自分は安楽椅子探偵を気取ってオフィスでふんぞり返ってるなんてのはもっての他でしょうね。それやっちゃうと、たぶんペルソナが原型でも典型でもなくなって、たんなる紋切り型になっちゃいそうです。あるいは、自分が実際に手も体も動かしていた時代にみつけた自分なりに手応えのあったモデルに固執しちゃって、なんにでもそれを当てはめようとしちゃうとか。

ただ、いずれにしても、行動変数は、インタビューの軸でもあった、脳内モデル、コンテクスト、ゴール、ワークフロー、ツールをめぐるものにはなるでしょうね。スライドでは二次元の座標のイメージを使いましたけど、本当は、もうちょっと複雑になるはずですね。

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2009年3月4日水曜日

間接税的なWeb

ごく身近な人が、なんとかしてWebのコンテンツを本や雑誌を読むように楽しめないものかと盛んに言うんです。それができないから、結局、なんか Web はつまんなくて本ばっかり読んじゃうんだよなーなんていって。

僕自身はふだん本は本、Web は Web、それぞれにいいところがあって、本か Web かなんていって一方が他方をまるっきり代替しちゃうなんてことはなく、本と Web でなんてすてきな組み合わせ、Web の話題に乗って本を手にとったり、本で読んだことを Web でフォローできたりで ( Web がなければこんなにいろんな人の書評やら感想文やらを読める世界なんて訪れなかったでしょう)、まったくよくできた相互補完だよねなんて思ってるくらいですから、そのごく身近な人の感嘆に共感はできなかったんですが、でも、あんまりしつこく言いつのるもんで、ではひとつ無理にでも関心を持って、そのいわんとするところの理解に努めてみようと、ちょっと考えてみたんですね。

で、まあ、いろいろあるんですが面倒なので一言でまとめちゃうと、ようするに、いっつもいっつも、検索したり、新着リストを追ったり、あるいは、その続き、ではなく、こっちもオススメなんてのに飛ばされて、いってもいっても、出てくるのは断片的な情報ばかり、そういうのがもうやりきれない、ってことなんですね。

いやいや、なにいってやがる、そこらあたりが Web のよかったところでしょってかんじですけれども、でもそうやって彼のやりきれない心を勝手に想像してみていたら、ふと、そういや自分もそんな気分になっているときがあるな、なんて思い当たっちゃいました。

いや、電車の中で暇つぶしにケータイのブラウザを開いているときとか。そういうときって、なんか探したり、新しいの見つけたりじゃなくて、雑誌でも読むみたいに、ちゃんと並べられたものを、次へ、次へで読んでいきたいなあ、なんて。それで青空文庫にいってみたりするんだけど、何読もうか探しているうちにもう着いちゃったりしてね。

ここのところ、ずーっとちびちび読んでるゴールダイレクテッドデザインの本、 「About Face 3」 に「間接税的作業」という言葉が出てきます。ゴールにダイレクトに向かうタスクではないんだけど、ゴールを目指すための地ならしとして、半ば義務的にやらざるをえないタスクのことです。そういうのはプログラマともよく相談してなるべく取り除いていきましょう、ってことなんですけど。たとえば今これ w-zero3 のメーラーで書いてるんですけども、ときにキータッチを誤ってみんな消しちゃうことがあるんですよね。だからときどき書くのを中断しては、まめに下書き保存するようにしてます。これはあきらかに間接税的作業ですね。

で、つまり、そのごく身近な人とか、電車に乗って暇を持て余してぼーっとしている僕なんかにとっては、検索性、更新可能性、膨大な相互参照ネットワークといったWebのいいところが、みんな間接税的な作業の発生源みたいに見えちゃってるんじゃないかと。同じ作業が、ペルソナやシナリオによっては、間接税的な作業になったりならなかったりっていうのはあって、この本に挙げられている例でいえば、中上級者にも強制される初心者向けウィザードなんてのがそれですね。

そういう観点にたってみて思い出されるのが、昔、はてなにあった Rimo ってサービスですね。YouTubeにアップされている動画からめぼしいのをピックアップして垂れ流しにしてくれるやつ。いくつかチャンネルがあって、こっちはチャンネルを合わせてぼーっと眺めていればいいって。

あれ、だめだったみたいですけど、たぶん、PCの前でハンターになってる人には合わなかっただけじゃないでしょうか。電車の中とか、見たいものを探す行為がなんだか間接税的な作業に思えてくるようなシーンに向けてだったら、もうちょいグッとくるかんじがしてくるかもしれませんよ。だから、Rimo 的なものが受け入れられる環境は、むしろ、これから整っていくんじゃないかな、なんて思います。

あと、最近始まったはてなブックマークニュースも、Rimo に近いものを感じますが、あれも思い切ってケータイ向けにしてですね、ケータイ変換のどさくさに紛れて共通のページネーションを挿入して、取り上げるブックマークをぜんぶ数珠つなぎにしちゃって、で、次へ、次へで見せてくれたらいいのにな、なんて思います。合間合間に、エディター側のコメントやら独自に取材した情報なんかを挟んでね。それで、ニュースというよりも、1テーマごと、もっとたっぷりのボリュームにして、なんかブルータスとか、そういうワンイシューマガジンをぱらぱら読んでいるようなかんじになるといいなあ、とか。無理ですかね。

いや、そうなってくると、僕の身近な人が読みたい Web っていうのに、少しは近づけるのかも知れないな、なんて思ったんですけどね。

そういえば、もう 10 年以上前に、Fresheye に達人のブックマークっていうのがあったな。

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2009年2月19日木曜日

SNSはプロレス団体ではない

SNSは専門化していく、ってなんかよく聞きますけれども、すでにネットワーク外部性で他に勝っているコミュニティ系サービスの内部に、あるジャンルに特化した先鋭的なコミュニティがぽこぽこ生まれていくってのは当たり前のようにあっても、専門SNSのようなものがいっときのプロレス団体みたいに乱立していくってのは、あんまりありそうもないと思うんですよね。

ただ、なにかキラーなアプリとかソリューションがあって、その存在意義や価値にコミュニケーションを誘発する特性が備わっていたりすると、周囲にユーザーコミュニティが形成されていくことはあるでしょうね。iKnowとか、それこそニコニコ動画とか。

でも、人生において、そういう質的に特異なコミュニケーションが欲求されることなんてそうざらにあるもんじゃないわけで。あったらそれはたしかに燃えますよ、だから、万難を排してそれだけのコミュニティに参加もしよう。しかし、たいていは、もっとゆるい、同好の者同士のおしゃべりで満たされるようなコミュニケーションでよくて、いや、それがよくて、それで十分楽しいし、役にも立つ。そういうゆるいところに、へんなコミュニケーション強化ツールなんて提供されても意味がわからない。

で、そういう強化が必要なければ、あるいは、とおりいっぺんのコミュニケーション機能がふつうに提供されているだけでよければ、コミュニティ系サービスの価値はネットワーク外部性のみに左右されることになるんで、細分化よりもむしろ大きいところがより大きくなっていく、がトレンドになるんじゃないかな。

というわけで、はじめひとつの大きな大陸があって、それがだんだんばらけていくようなイメージとか、そういう全体的な傾向として専門化への流れがある、なんていえないと思います。流れは反対で、ただ、その流れとは無関係に、なんらかのソリューションと一体になった、特異な、島みたいなコミュニティが生まれることはありえる、って感じでしょ。

それから、so-net がやってるような誰でも主催できるSNSって、プライベート志向のやつ、ちょっとおもしろそうですけど、これも専門化うんぬんとはまた違いますよね。方向性として似ているように見えても、そもそも知っている者同士の了解ありきで始めて、その先の広がりにもほとんど期待はないとすると、ネットワーク外部性が介在する余地がない。

まあ、その、こんな情勢判断なんてやっても仕方ないような気もするんですが、ただ、あっけらかんと大きくは専門化の流れ、なんていって、そのおおざっぱな認識を根拠にして、とにかく専門化してればなんでもOKみたいな企画をたてちゃうとか、そういうのは厳に慎みたいなと思いまして、ちょっと書いてみて自分の頭を整理、ということで。おそまつ。


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