2010年1月21日木曜日

ツールのエクスペリエンス

About Face 3 読書ノートの 24。

Chapter12 「よき振る舞いのデザイン」は、クーパーの関白宣言とでもいうべき内容です。おれより先に寝てはいけない式の戒めを一方的にまくし立ててます。一言で言えば、ソフトウェアは思慮深くあれってことなんですけど、例によって、一言で言い切ってすっきりしちゃうような人じゃないわけです。

こんなかんじなんですよ。

おれに関心を示せ、敬意を払え。

常に先を見て、常識と洞察力を働かせながら、おれのニーズを予測しろ。

おれに必要な情報はちゃんと示せ、でも、うるさく質問はしてくるな。

いたずらに不安がらず、トラブルは穏便に収めろ。自分の問題でおれに負担をかけるのはやめろ。

なんでも用意周到にこなせ。ときにはルールを曲げなきゃならないことがあることも知っておけ。

そして、責任は全部おまえがとれ。

って、ね。こう書いてみるとすごいですよね。つい、続けて、

おれに関心を示せ、敬意を払え。
おれに関心を示せ、敬意を払え。

なんて、勝手にサビをつくって歌いたくなってきます。
まあ、いろいろ好き勝手言っているようですけれども、言わんとするところをよく読んでみると、ここで要求してることの数々は、A.よく気がつく子の特徴と、B.気だてのいい子の特徴に二分できそうなんですよね。すなわち、

<A.よく気がつく子だよ>

先が見える
ニーズを予測する
用意周到である
洞察力を持つ

<B.気だてのいい子だよ>

ユーザーに対して関心を持つ
ユーザーに敬意を払う
ユーザーに必要な情報を提示する
あまり質問しない
常識を知っている
穏便にエラーを収めることができる
ルールを曲げるときを知っている
自分の問題で他人に負担をかけない
自信を持っている
責任をとる

これ、B.のほうは、ツールとして現場に出てくるときには、当然あらかじめ身につけておいてしかるべきビジネスマナーってかんじですよね。

ツールとしてどんな仕事をするのかはともかくとして、ツールである以上、人間様に対してとるべき態度は自ずと定められている。あるいは、特定のユーザーや状況に奉仕する星の下に生まれついたのであってみれば、身の処し方にもやっぱり一定の規範というものがある。

だから、デザイナーはペルソナやらシナリオやらでツールの境遇を追い込んで、目当てのユーザーに気だてのいい子だよとかわいがってもらえるような振る舞いのパターンを身につけさせようとするわけですよね。その子の器量、つまり、ツールの使用価値の大元のところとは別の水準の話としてね。(あれ、だんだん政治的に正しくないかんじの表現になってきちゃったかな。)

一方、A.のほうはちょっと違う。先、予測、用意、洞察って、これ、どれもまず相手の反応を見なきゃ始まらないですよね。コール&レスポンスの反復の中から少しずつ確度を上げていくしかないようなもんじゃないですか。一体こんなことをあらかじめデザインすることなんてできるんでしょうか。

でも、about face 3 は言うわけです。コンピューターなんだから、もっとユーザーの操作をせっせと記憶したり推論したりしてもいいはずだろうと。それではじめてよく気がつく子にもなれる。で、そこのところに本気で取り組むとすれば、じゃあ一体何をどんなふうに記憶するのか、そしてどんな推論を働かせればいいのかってことが問題になるわけだけど、そこにひとつ、デザインのしどころがあるんじゃあるまいかって。つまり、あらかじめ拵えておけるのは、気がつく能力自体じゃなく、気がつける能力だってことですよね。

ユーザーにどんな体験をしてもらうかってのをユーザーエクスペリエンスデザインと呼ぶなら、これはいわば、ツールエクスペリエンスデザインですね。操作される体験のデザイン。

いい道具ってのは使い込んでいくうちに手に身体に馴染んでくるなんてよくいいますけれども、あれ、使うほうが道具に合わせて使い方を馴らしていく一方で、道具のほうも、使われ方によって微妙に変形したりしてくるもんなんでしょうね。

誰かが使い込んだギターには弾き癖のようなものが残っていて、ちょっと触るとすぐわかるなんて、このあいだテレビで char が言ってました。

そういう、よい道具の特徴みたいなのを、ソフトウェアやデジタル製品にも持ち込むことはできないかって、そういう話として理解してもいいんじゃないでしょうか。これ。

about face 3、それこそ周到なことに、コンフィギュレーションとはまたちょっと違うんだ、なんて注意まで促してるくらいで。

具体的には、まず、ユーザーが入力すべき価値のある情報は、すべて記憶すべき価値のある情報でもあるなんて前置きをしながら、次の3点に着目して記憶をデザインしなさいと言ってます。

・よく入力される値
・あるオブジェクトについて直前に行われた指示や選択
・ユーザーにとっては実質的にひとつの操作として見えているはずの作業手順

そして、推論を行う際に従うべき指針としては、「ほとんどのときにほとんど正しい」という蓋然性重視のスローガンを打ち出しています。

まあ実際、サジェスト機能だの、よく使うページ/ファイルだの、ファイルを開く・保存するっていったら、前に選択したフォルダが開くだの、そうした思慮深さの恩恵はすでに当たり前のものになりつつあるわけですけれども、いざ、そのあたりを自分でデザインすることになったらですね、ただそうした局所的なデザインパターンに従うだけじゃなく、ああ、これはこのツールが一体何を体験するかについてのデザインなんだよなあ、なんて頭で取り組んでみるといいかもしれないですよね。

ひょっとしたら、みんながびっくりするような、本当に気がつくよい子にしてあげられるかも知れません。

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2010年1月7日木曜日

モーダルを選ぶキリコ

ぼくは今、総務部のおじさんたちのためのアプリケーションのことを考えている。彼らに与えられた仕事にかかる負荷を軽減しつつ、それでいてその効果を最大化することが求められている。そこで、ぼくはクーパーに習って、まず、彼らのゴールを探る。彼らのエンドゴールは、求められたことを、過不足なく、つつがなくやり遂げることである。エクスペリエンスゴールは、なるべくそれに煩わされることがなく、ほとんど機械的に済ませてしまえることである。ライフゴールは、だから、そんなつまらない仕事はさっさと終えて、もっと生き生きとした時間をより多く過ごすことである。つまり彼らは、これからぼくが考えるアプリケーションと共にする時間をなるべく短くしたいと考えていて、これ以上短くならないのなら、なるべく楽に、心を亡くしても無事にやり過ごせるようなものにしてほしいと願っている。

彼らはしかし、けっして馬鹿でも子羊でもコンドルの自由を知らない被抑圧階級の一員でもない。ただ、彼らの人生全般において、ぼくがこれから考えなければいけないアプリケーションのすべてが、クーパーのいう間接税にすぎないというだけのことだ。彼らの本当のライフゴールを支える道具は他にきっとある。

クーパーのゴールダイレクテッドデザインとは、反面から捉えていえば、間接税的操作の排除、もしくはその最小化だと言い換えていい。そのためのペルソナでありシナリオだ。しかし、自分がデザインしようとしている道具がまるごと間接税扱いされてしまう事態には触れていない("間接税的なポスチュア"というものもあるのではないか?)。ぼくはおそらく、総務部のおじさんたちのために、クーパーが忌み嫌う、徹頭徹尾モーダルな、ウィザード風のインターフェースを提案してしまうだろう。

この話の筋は、ひょっとすると、ドクターキリコの安楽死肯定論に似ているかもしれない。人の一生をもっと大きな何かの前で相対化することがキリコのニヒリズムだったろう。しかし皮肉なことに、キリコの最期はブラックジャックのヒューマニズム(人の一生の全体化)に感じ入りつつ、誰かの全体のために我が身を犠牲にすることで訪れる。(いや、ぎりぎりのところで、結局、ブラックジャックに助けられてしまうんだった!)

キリコのかたわらに、本間先生が姿を現してくれることはきっとなかったんだと思うよ。
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