2009年12月25日金曜日

単斜グループって何ですか?

About Face 3 読書ノートの23。

About Face 3 に、階層構造(特にフォルダの中にまたフォルダがあるような、同じ種類のオブジェクトの入れ子構造)はふつうの人には理解しにくく、取り扱いも難しい。それよりも「単斜グループ」を使ったほうがいい、みたいなことが書いてあるんです。

単斜グループ? 何それ?

説明を読めば、それが、階層を持たない一列の並び、ということで、現実世界でいえば、本棚やファイルキャビネットのようなものだとわかります。

Webでは、下記のサイトで説明が読めます。

Monocline grouping (Global Constant)
http://globalconstant.scnay.com/2009/09/10/monocline-grouping/

「A monocline grouping is a representation of data in a single layer (i.e., without a nested hierarchy)」

ってね。

しかし、これがなぜ「単斜」なんでしょう? 地学で「単斜構造」といえば、

weblio 石油/天然ガス用語辞典 単斜構造
http://www.weblio.jp/content/%E5%8D%98%E6%96%9C%E6%A7%8B%E9%80%A0

「地層が、ある広がりにわたって、おおむね同一方向に傾斜している地質構造をいう。」

ってことで、

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Monocline01.gif (wikipedia commons) ← こういうことですね。

結晶の単位格子の種類にも「単斜晶」というのがあって、

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Monoclinic.svg (wikipedia commons) ← こういうことですよ。

これらに共通しているのは、まあ、一方向に傾斜してるってことですけど、About Face 3 がいう monocline grouping にナナメは関係あるの?

本棚がスカスカで本がナナメになっちゃってるって?

なんかぜんぜん腑に落ちないんですよ。ところが、前のエントリーを書いているとき、monocline 単斜 と、mono な cline は違うのか?と、思いまして、cline を調べてみたところ、

Google 英語辞書
http://www.google.co.jp/dictionary?langpair=en|en&q=cline&hl=ja&aq=f

「a series of similar items in which each is almost the same as the ones next to it, but the last is very different from the first」

こう出ました。

つまり、先頭から後尾にかけて、要素の性質がだんだん変化していく配列みたいなことでしょう。生物学の用語として連続変異とも訳されるようですね。

こっちのほうが、About Face 3 と Global Constant が説明している monocline grouping にフィットしませんか?

もっとも似ている者同士が隣合うように並べておいて、類似度の差が大きくなっているところが、グルーピングの境目だと心得ておく。

階層なんてややこしいことは考えず、そうしたひと並びの列にモノをしまっておいたほうが、人にはやさしいというのが monocline grouping でしょ。

というわけで、どういうつもりでクーパーが monocline という言葉を選んだのか、英語ネイティブが monocline と聞いてどんなイメージをまず心に抱くのか知りませんが、とりあえず、monocline grouping を、「単斜グループ」と訳すのは、ちょっと不適切なんじゃないかと思うのですがどうでしょう。

じゃあ、何と呼べばいいか? もう、「クラインなかんじに並べとく」って言うしかないかな? でも、クラインとかいうと変な形の壺が目に浮かぶしな ... 。

2009年12月24日木曜日

ぼくらの純インタラクションを守れ

about face 3 読書ノートの22。

about face 3 に、まるで一大スクープのように、

「ナビゲーションは間接税的な操作だ」

なんて大きな見出しを打っている箇所があります。

そこでは、ナビゲーションを「インターフェースの新しい場所にユーザーを連れていく動作、またはユーザーがオブジェクト、ツール、データを見つけなければならない動作」と定義してるんですが、「連れていく」ったってべつに有り難い話じゃなく、ユーザーにすればむしろわざわざ、しぶしぶってところですから、もうなんか連行されるみたいなニュアンスさえただよって、後の「見つけなければならない」ってのと合わせると、じつにこう、ツールのニーズによって道具化されてしまう人間の悲哀がよく伝わる、ドナドナ的な言いっぷりのような気がしてきます。

そして、そんな怖い怖いナビゲーションにはどんなものがあるのかって、

(以下、例によって、読書ノートなので自分の頭に入れやすいように勝手な要点抽出フィルターがかかってます。)

1.移動。アプリケーションを構成する複数のウィンドウ間、あるいはウィンドウ内の複数のペーン間の。

2.探索。ツール、コマンド、メニュー、あるいはオブジェクト、コンテンツ、データの。

3.切替。オブジェクト、コンテンツ、データを表示する範囲または粒度の。

と、こう列挙されるわけですよ。

あらためてこれらのひとつひとつに思いを馳せてみてください。ユーザーエクスペリエンスなんつって、ほとんどナビゲーションがらみで埋め尽くされているようなもんじゃありませんか。

これが全部、ゴールに直接向かうわけではない、間接税的な操作だっていうんですから、たとえ400円になったとしてもタバコのほうがよっぽど良心的なかんじがします。

で、思うんですよ。じゃあ、ナビゲーションじゃない、無税の、つまり真にゴールダイレクテッドなインタラクションって逆に何?

上のナビゲーションの定義に習って思いっきり大きく出ると、オブジェクトとかコンテンツとか、とにかく何らかのデータの表現を確認して、これになにか手を加え、その結果、データがどんなふうに変化したのかをまた確認すること、この往復、循環、ってことになるでしょう。

ナビゲーションのタイプのうち、上記の2.も3.も抜いてですよ、ほんとにそこだけ純化して取り出したら、これ、非常に僅かな、希少なもんなんじゃないですか。これを純インタラクションとでも呼んで、どっかに含有率を書いといてほしいですね。

いや、しかし、だからといって、虐げられた民びとよ立ち上がれ、今こそこの圧政に反旗を翻せ、とかって話じゃないんですよ。だってこれは、いわば、その純インタラクションの本性がもたらしている宿命ですからね。逃れることはできません。

つまり、僅かとはいえ(いや、含有率とは関係なく)、純インタラクションの全体は、デバイスの表示領域に入りきらないほどデカいわけです。だから常に部分的にしか取り扱うことができず、そのために上記の移動、探索、切替が必要になっちゃって、結果、インタラクションのほとんどがナビゲーションになってしまうということですもんね。

ほんとにもう、インタラクションデザインって、この宿命をどう受け入れるかについてのデザインだと言い切っちゃいたくなるくらいのもんで。ですから、インタラクションデザインの戦術レベルでの指針は、ユーザーの視覚、認知、記憶、運動にかかる負荷を下げ、フロー状態を良好に保つってことだと思うんですが、そうする上で障害として立ちはだかってくるのは、大抵、ナビゲーションがらみということになるはずです。

そのために、--- つまりナビゲーションの氾濫から純インタラクションを守るために --- about face 3 が立てた作戦はこうです。

●永久オブジェクト

どんなにシステムの状態が変化しても、けっして消えてなくならないものを用意し、これを一番はじめに印象づけておこう。

永久オブジェクトこそ、すべてのナビゲーション起点であり、次にとりうる選択肢を常に示している道しるべであり、そして、いよいよというとき、最後に頼るべき縁でもあります。

たとえば、システムと同じ寿命を持つトップレベルのウィンドウ、グローバルナビゲーション、デバイスの物理的なボタンとかね。

●位置情報

全体像と現在位置をいつでも知ることができるようにしておこう。

その方法は、今、まさに部分的に取り扱っているオブジェクトの性質に合わせて、いろいろな手口を考えておく必要があるでしょう。

たとえば、Webサイトならブレッドクラム。画像編集ソフトなら、現在表示している範囲を縮小された全体像中に矩型で示すオーバービュー。ウィンドウシステムでは、現在表示している位置と範囲を、全体に対する相対的な長さで表現してもいるスクロールバーとかね。

●自然な対応関係と構造

純インタラクションにおいて、ゴール達成を容易にするための交換条件としてまあまあ見合う、ということならともかく、一介のナビゲーション風情が、自分のために新しいものの見方や習慣をユーザーに押しつけるなんてことがないようにしよう。

ありがちなのが、車のウィンドウを開閉するボタンが縦一列に四つ並べられている場合、右後部座席のウィンドウを開閉するには何番目のボタンを押したらいいでしょうか? --- 的なレイアウトの対応関係にみられる鈍感さ。

あるいは、時系列のソーティングの方向を、「昇順」「降順」というデーターベース用語で選ばせるような、ラベルと機能の対応関係にみられる普通の人にとっては不自然な実装モデルの押しつけ。

それから GoF のコンポジットパターンのような、同型のオブジェクトが入れ子になるような階層構造なんかも、マトリョーシカ的な玩具以外に現実世界ではまずありえなくて不自然。そもそも、ほとんどの人は深い階層構造を辿るような移動、探索、切替を現実世界で体験したことがない、とかね。

●ペルソナへの適応

連れていくべき場所、ユーザーが見つけなくてはならないオブジェクト、ツール、データを減らす、というか、そのうちでも、普段から意識しておくべきものを極力減らしておこう。

簡単に言えば、いつもそばにあるものと、深いところに隠しておくものとに仕分けること。仕分けの基準は、

・使用頻度
・労力と報酬の見合い
・転位の度合い(その操作によってデザイン対象の状態がどれほど大きく変化するか?)
・危険度(失敗した場合の取り返しのつかなさ)

となるんですが、いずれも、ペルソナの性質、ニーズ、ペルソナが活動するコンテクストに深い関わりを持ちます。言い換えれば、ペルソナに合わせてインタラクションを整理してみようってことです。

よく使うものは当然、いつもそばに置いておきたいですよね。注意したいのは、深いところに隠しておくもの。これには、深いところに隠して"おいても"いいものと、隠して"おいたほうが"いいものと二種類ある。

労力と報酬の見合いがとれ、(かつ、それほど頻繁に使わないものなら、)深いところに隠して"おいても"いい。

転位の度合いや危険度が高いものについては、一般に、深いところに隠して"おいたほうが"いい。とかね。

こうして、実際にはその数を減らすことはできなくても、なるべく、なるべく、ナビゲーションのやつらにユーザーの心を奪われないように気をつけて、ユーザーの心に占める純インタラクションの割り合いをもっと上げていこうよ、ということですね。

純インタラクション --- そう、今夜は特別に、My Sweet Soul Interaction って呼ぼう。My Sweet Little Interaction のほうがいいかな?

2009年12月11日金曜日

ツールのニーズ

About Face 3 読書ノートの 21。

「ゴールの達成には直接的には貢献しないが、それをしなければゴールを達成できない」ような作業を About Face 3 は「間接税的な作業」と呼んでます。たとえば、遠い目的地を目指すのに車を使いたい。しかし、車を使うには、まずガレージのシャッターを上げなくちゃいけない、ああ、めんどくさい。とかね。

PCでいえば、まず、ソフトウェアをインストールしなくちゃいけない、ネットワークの設定をしなくちゃいけない、OSが拡張デバイスをうまく認識するように設定してあげなくちゃいけない、ファイルのバックアップのことを心配しなくちゃいけない、とっちらかったフォルダを漁って目的のファイルやアプリケーションを探し出さなくちゃいけない、ウィンドウの位置やサイズがしっくりくるようにいちいち調整しなくちゃいけない、初心者向けのおせっかいなヒントを一撃必殺の早業で消したり、いつまでもご親切なウィザードにつき合わされなくちゃいけない、煩雑な画面から必要な情報を、過剰な装飾の中から操作可能な領域を発見しなくちゃいけない、ナントカデスクだのナントカタウンだの、回りくどい喩えと機能の対応を推し量らなくちゃいけない、今、目の前に表示されている登録済みのメールアドレスを変更するために、わざわざ特別な画面に出向いて行かなくちゃいけない、理不尽であるか、あるいは取るに足りないささいな事柄に関する警告に悩まされ、挙げ句の果てに、さもこちらに落ち度があるかのように扱われる屈辱に耐えなくちゃいけない、って、いっきにまくし立ててみましたが、これみんな間接税的な作業の具体例として、About Face 3 が告発していることです。

そして言います。こういうの全部、いってみりゃアンチゴールダイレクテッドなインタラクションでしょ、できることなら根こそぎ取り除きたいよね。それが無理なら、せめてできるだけ目立たないように、できるだけの手を打ちたい。そのためにはまず、こういうことに意識的に、そして、敏感にならなきゃだめだよね、と。

なにかにつけ、そんなことがめんどくせえようなら死んじまえ、が口癖だった父に恐々としながら育ったぼくは、だから、生来、インタラクションデザインには実は不向きなのではないかとも思うのですが、ま、しかし、生まれつきや三つ子の魂だけでやっていける人生なんてないわけですから、ここはひとつがんばって、年齢不問で成長していきたいです。

さて、そう思って、間接税的な作業について取り上げているChapterを何度も繰り返し読んでいると、こうした間接税的な作業を生む温床には次のようなものがあることが自ずと腑に落ちてきます。

ひとつ、ユーザーの習熟度の多様性を無視すること
(中上級者をいつまでも初心者扱いするとか)

ひとつ、ポスチュアのあり方に無頓着であること
(本来、支配者的なポスチュアであるべきなのに、単発的なポスチュアをとってしまうとか)

ひとつ、蓋然性より可能性を重視すること
(ほとんど起こらないことに備えて、普段の作業をぎこちないものにしたり)

ひとつ、フェイルセーフではなく、フールプルーフで対応しようとすること
(やり直しがきくようにできないものだから、失敗ゼロを目指して作業をがんじがらめにしたり)

ひとつ、実装モデルを押しつけること
(入力と出力はつねに別系統とか)

ひとつ、単にさぼること
(機械でできるはずの推論と記憶を放棄してすましているとか)

しかしこれ、間接税的、と表現するのはどうなんでしょうね。About Face 3 が念頭に置いているのは消費税的なものみたいですけど。いや、わかりますよ。商品の対価に交換価値、使用価値以上の部分がふくまれているかんじ。でも、税メタファーじゃ、売り手(ツール)、買い手(ユーザー)とは別に、上前をはねてるやつが他にいそうな雰囲気じゃないですか。しかし、ここで悪いやつだとつるし上げたいのは、政府みたいなものじゃなくて、目の前でいけしゃあしゃあと不当に値をつり上げてる店のおやじのほうなんですよね。

一方で、このChapterに「ツールのニーズ」という言葉が出てくるんですけど、こっちのほうが、この問題を言い表すのにふさわしいような気がしました。ユーザーのニーズじゃなくて、ツールのニーズ。

ニーズって、あらためて言うまでもないことですけど、要するに、ゴールに達っするために何かを必要とすることですよね。ゴールに自足的に達することができないとき、不足分を補う何かを他に求めること。

何か思い定めたゴールがあるとして、しかし徒手空拳ではかなわないので、人は何か道具を探す。自足的にゴールを達成できないので、道具に対するニーズが生じる。一方で、道具のほうでも、実はそれ自体としてあるゴールを持っている。それは、つまり、ユーザーのゴール達成を支援することですね。だからこそ道具は道具としてありえるわけですけど、そのゴールを自足的に達成できないとき(間接税的な作業を生む温床)、道具にもニーズが生じてしまう。つまり、道具のほうが、今度はユーザーを道具として使おうとするわけです。これが間接税的な作業の正体。

しかも、それをうまいこと、ユーザー自身の発意による、ユーザー自身のゴールに向かうための仕事であるように見せかけるんですよね。質が悪い。案外、インタラクションデザインって、この倒錯を巧妙にカモフラージュするテクニックとして発達してきた部分も少なからずあるんじゃないでしょうか。

だから、冒頭でまくしたてたようなことに対する感性を研ぎ澄まして、目ざとく告発できるようになったあかつきには、「それって、ツールのニーズでしょ?」というセリフで決めてみたいです。ぼくは。

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