2011年8月19日金曜日

もしもボックスのデザイン

もしもボックスの操作インターフェースが従っている電話メタファーは、ダジャレ好きの開発者による気まぐれなデザインではけっしてない。ユーザーは、受話器を取り上げ、呼び出し音を聞きながら"相手"が電話に出るのをしばらく待ち、しかるのちに、途方もなく独善的な願望の実現を口頭で"依頼"しなくてはならない。また、そうして望み通りに作り変えられた状況が、思わぬ方向へ展開していってしまうことに恐れをなして依頼を取り消したくなった場合も同様である。この一連の操作プロセスは、ユーザーのゴールに対しては余計な、課税的なもののように見えるが、実は、道具の性質が要請する、インタラクションデザイン上のある重要な配慮の実装として採用されたものに違いない。電話メタファーを通じて、ユーザーの行為は、自らによる世界の操作ではなく、世界を操作できる何者かへの依頼に変換されてしまう。もしもの世界は、ゴールではなく、一種の贈与として実現される(もしもボックスは対価を求めない)。ユーザーは、新しい世界を、ある種の負い目とともに受け取らなくてはならない羽目に嵌められているのだ。この負い目は、ユーザーに次の依頼をためらわせるかも知れない(電話メタファーのインターフェースは操作の中断のチャンスにあふれている!)。あるいは、次の依頼の内容をやや控えめにさせるかも知れない(受話器の向こうで聞き返したりすれば、さらに効果はてきめんだろう)。つまりこれは、ユーザーの心理に働きかけて、この道具の濫用を防ごうとするデザインなのだ。ラー油が一度にドバッといかないように注ぎ口の形状を工夫することにも似た、一種のフールプルーフだが、ラー油の例やその他の普通の意味でのフールプルーフの仕掛けと異なるのは、インターフェースの形態や操作手順にではなく、操作を通じて期待されるユーザーの認知主体としての変容をプルーフとして活用しようとする点にある。いわば、クーパーのポスチュア論の水準で、ヒューマンエラーの制御になんらかの好ましい影響を与えようとする試みであるといえる。

このように、手の込んだ仕掛けが考えられなければならないのは、(私にはそのメカニズムを理解し説明する能力はないのだが、おそらく、)もしもボックスが、恐ろしく危険な道具であるからだろう。ユーザーの心身にとっても、この世界にとっても、濫用は禁物なのである。

そしてまた、それほどに、電話でものを頼むのは、じつに面倒なことなのである。