2009年1月26日月曜日

ゴールダイレクテッドアフォリズム

About Face 3 読書ノートの3。

この本は3つのパートに分かれていて、最初のパートは、デザインってのはとにかく使ってくれる誰かに身も心も奉仕する作業、まずは、その誰かをちゃんと探し出して、デザインの照準にロックするところから始めなくちゃならない、デザインが失敗するのは、奉仕の仕方がへたくそだという以前に、たいていはその誰かをロックするという作業をさぼってるからなんだ、みたいな話でした。

で、ユーザーのニーズの調査のしかた、調査結果をペルソナにまとめて把握していくやり方、ペルソナを使ってデザインの枠組みを構築していく方法なんかが解説されています。

いま、そのパート1を読み終わったところなんですけど、この本を読んでいて、10年くらい前に、Perl のラクダ本を夢中になって読んでいた頃を思い出しました。なんていうか、気の利いた決めセリフみたいなのがたくさん散りばめられていて、ちょっとハードボイルド風で、内容もさることながら、その文体を面白がってたフシがあったんですよね。この本もそれに似ていて、読んでいて楽しい。

それで、そういう決めセリフみたいなのだけ抜き出してみると、なんかアフォリズムみたいになって面白いんじゃないかと思いまして、ためしに復習がてら抜き書きしてみました。

以下、1ページ目から順を追って、そういう頭で読んで目に止まったフレーズです。→から始まる行は、ぼくのコメントです。

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ソフトウェアはそれほどソフトではない。

→だからよく考えられた方法と計画が必要なんだってわけですね。

マネジメントは完成した製品の収益性に責任を持つ。
マーケティングチームは顧客が製品を買いたいと思うようにするための仕事に責任を持つ。
エンジイアリンツチームは製品の実装、製造に責任を持つ。
デザインチームは製品に対するユーザーの満足度に責任を持つ。

→デザインチームだけが、形のない、ユーザーの心理現象に責任を負うことになってますね。マーケティングチームが責任を負うのは、「顧客が製品を買いたいと思う」ことではなく、そう「思うようにするための仕事」なんだって。

フリーサイズの原則を適用すれば、ユーザーインターフェースを作るのは楽になるが、最終的な結果がよくなるかは話が別だ。

インタラクティブな製品を数百の機能のリストに矮小化しても、複雑なテクノロジを役立たせるために必要な調和のとれたオーケストレーションは生まれない。

要件リストに「使いやすいこと」という項目を追加したとしても、事態は改善されない。

→そりゃそうだ。

デザインはまったく役割を果してしないか、ひどすぎるインタラクションの体裁を表面的に整えているかに過ぎない。

→「私たちのあるクライアントは、かつてこれを『豚に口紅』といったことがある。」... 豚扱い!こんなこといわれたら相当へこむでしょうね。

ソフトウェアを搭載している製品の振る舞いには、ごく最低限の礼儀もない。教えてやったことは忘れるし、こちらのニーズを予測することもできない。

デジタル製品は、コンピューターのような考え方をしろと人に迫ってくる。

ソフトウェアやデジタル製品は、10歳の子供なら夕食抜きになるような振る舞いを平気でする。

→「子供がこんなことをすれば、『お母さん、ごめんなさい。これからはいうことをききます』といわされるだろう」...10歳の子供のようなデジタル製品のほうに感情移入しちゃいそうになりますね。

いかに能力があり、まともな考え方をしていても、プログラマが同時にユーザーとビジネスとテクノロジの3つを代弁することはできない。

→ 製品を作る人たち=プログラマにすべてを押し付けてきたことのツケが、嘆くべき今日のインタラクションデザインの貧困なのだ、と。

頭の中がアルゴリズムとコードでいっぱいになっているプログラマが製品の振る舞いやユーザーインターフェースを「デザイン」するなど、鉱山主が穴だらけの地面とがれきの山で風景を「デザイン」するのと同じだ。

→ しかし、それは言いすぎじゃないか。

ユーザーのゴールは無視するが、作業をこなすというソフトウェアが、ユーザーの本当の力を引き出すことはまずない。

市場の量的な調査と市場セグメントの分割は、製品を売るためには非常に役立つが、人々が実際に製品をどのように使うかについては大して重要な情報を与えてはくれない。

製品開発でもっとも危険なのは、ユーザーからデザイナを隔離することである。

製品の機能は、マーケティングの要件仕様に新技術をぺたぺたと張り付けたパッチワークにすぎないものが多すぎる。

→ぼくは昔、新機能をうたいあげたチラシからスタートする開発プロジェクトに参加したことがあります。チラシドリブンとかいって。

ユーザーの脳内モデルはかならずしも正確ではないし、誤っている場合さえあるが、ユーザーが効率よく仕事するのを助ける働きを持つ。

新しい技術の成果は、最初は前時代の技術が使っていた言葉でしか表現できないものだ。

新しく作られたソフトウェアの真価は、一定の規模を越えるユーザーが現れるまでは見えないことが多い。

情報化時代の拡張を加えずに機械化時代の人工物をユーザーインターフェースに再現してはならない。

ほとんどのユーザーは、初心者でも上級者でもない。彼らは中級者なのである。

具体的なデザインの問題やコンテキストにおいてユーザーという用語を使うとトラブルの原因になる。ユーザーという概念は精度が低いので、デザインツールとしては危険なのだ。

→ だから、ペルソナを作ろう、と。

境界条件はデザインの対象となるし、プログラミングも必要だが、デザインの中心になってはならない。

ペルソナは、特定のコンテキストでインタラクションしているユーザーを観察して組み立てられたものなので、密接な関連のある製品スイートに含まれる者同士であっても、簡単に別の製品で再利用できるものではない。

→ここらへんが、マーケティングとデザインのそれぞれの本質が鋭く対立するところなんでしょうね。

ペルソナはアーキタイプであってステレオタイプではない。

ほとんどの場合、ユーザーは自分の仕事が階層型データーベース、リレーショナルデーターベース、オブジェクトデーターベース、フラットファイルシステム、黒魔術のどれを使っているかなど考えたりはしない。

→でも、作っているときに、黒魔術の存在を感じるときはあるかも。

ユーザーのもっとも重要なゴールは、人間としての威厳を保こと、つまりバカにされた気分にならないことだ。

「いかに」の部分をデザインする前に、製品の「何」をデザインするのかを決めよ。

インタラクションデザイナは、特定の人間のニーズを満足させるための最良の方法を考えるときにこそ、強力でとても魅力的な製品を作るための手段を手にする。

クライアントやステークホルダーに選ばれると困るような選択肢がある場合、彼らはほぼ確実にそれを選ぶ

デザインは、コーディングが始まる前に評価しなければならない。

→ソフトウェアは思ったほどソフトではないからね。

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以上です。

こんなことを自信たっぷりに口にできるような男になりたいもんです。

そのためにも、いたずらにぐいぐい読み進めず、しばらくはこのパートにとどまって、学んだことや考えてみたことをノートしていこうと思っています。

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2009年1月23日金曜日

ポスチュア

About Face 3 読書ノートの2。

順調にちびちび読み進めていっているわけですが、突然、ポスチュアなんて聞き慣れない単語がなんの注釈もなく立ちはだかりまして。インタラクションの基本方針を決める最初のステップは「フォームファクタ、ポスチュア、入力メソッドの定義」なんつって。

入力メソッドはわかる。フォームファクタってのも文脈からいってデザイン対象の形状や利用環境のことだってわかる。でも、ポスチュアってなに?

あわててググってみても、ポスチュアウォーキングしか出てこないし。辞書ってみると、posture って、姿勢とか、態度のことかと。この語のこの本における定義みたいなのはないのかって、ざーっとページをめくってみたら、まだ当分のあいだそこまで辿りつけそうもない先のほうにありました。

「製品のポスチュアとは振る舞いのスタンスであり、ユーザーに対して自分をどのように見せるかということだ。」ということです。つまり、Webデザインなら、そのサイトなりアプリが、どういう姿勢、態度でもってユーザーに迫ってくるのかってことですね。それはでも、ユーザーの側の製品に対する期待やニーズの反映であるわけですけどね。

たとえば、デスクトップアプリケーションには、3種類のポスチュアがあって、支配的なポスチュア、単発的なポスチュア、デーモン的なポスチュアってことになるそうです。

支配的なってのは、オフィススイートのそれぞれみたいに長時間ユーザーに注意を払わせるやつ。単発的ってのは、多くは支配的なのに従属して、ある部分的なタスクの遂行に使われるようなやつ。なんかファイルを開きたいときに短時間だけ使われるファイルエクスプローラーとかね。デーモン的というのは、デーモンプログラムのデーモンですね。ユーザーには暗黙のうちに動作してるやつ。三者三様、ユーザーに迫ってくるかんじ、っていうか、ユーザーとの時間の過ごし方が違う。

そんなふうに、まずポスチュアのことを明確にしておけば、おのずとそれぞれのポスチュアにふさわしいインタラクションやトーン&マナーのあり方も決まっていく。それは、一種のデザインパターンとして考えていってもよさそうですよね。

そういわれてみると、Webサイトならなんでもかんでも更新感が大事、なんていわれて、いやいや、そんなことはないだろう、これは一回みたらもう十分、誰がここに毎日のように訪れるよ?とか思うことがあるんですけど、それは、サイトなりコンテンツのポスチュアが違うでしょ、ってことなんですね。


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2009年1月21日水曜日

原型であり、典型でもあって、でも紋切り型ではないもの

なーんだ? 答えはペルソナでした。

最近、アラン・クーパー他著「About Face 3」を読み始めました。その中で、ペルソナとは対象ユーザーのアーキタイプであるが、ステレオタイプであってはならない、とか、それは平均的ではなく、典型的なユーザー像である、なんて述べられてまして、そのへんのことを一文にまとめてこのエントリーのタイトルにしてみたのですが、そう並べてみて改めて思うに、原型と典型と紋切り型の違いをただちに弁えて、つるっと飲み込めるかというと、ぼく、正直、ちょっと怪しかったんですね。

すこし、立ち止まって考えてみました。

紋切り型は、まあ、世間に流通している、陳腐でもあるような、固定的なイメージのことですよね。

典型は、あるグループの特徴をよくあらわすメンバーのことですね。この本では平均と対比されていますが、平均的なメンバー像は一種の抽象ですが、典型は実在する誰(どれ)かってかんじですよね。

原型ってのは、けっこう雰囲気だけで使ったり、聞き流してたりしてたかもしれません。あらためてちょっと語義を調べてみると、量産のベースになる雛形のことをイメージするのがいいみたいです。

で、そこまで確かめて、なるほど、と。いわく、ペルソナとは、デザインの対象とするユーザーの原型であり、典型であるが、しかし、紋切り型ではない、ってね。(このまんまの文が本に書いてあるわけではないですよ。念のため。)

実在する個々のユーザーたちを、そのバリエーションとして考えても差し支えないようなユーザー像が原型としてのペルソナ。また、そうしたユーザーたちをある特性ごとにグルーピングした場合、各グループの特徴をよくあらわすユーザー像が典型としてのペルソナ。
そして、ペルソナは、あくまでも事前の十分な調査に基づいて浮かび上がるもんであって、勝手に思い浮かべちゃいけない、ってことですよね。

勝手に浮かべちゃうと、たいてい陳腐な紋切り型になってしまうか、デザイナー自身を投影したユーザー像を相手にしはじめちゃうか(=自己参照デザインと呼ぶそうです)、いずれにしても勝手な話なので、そうしたユーザー像は、デザインプロセスの都合に合わせて恣意的に、無自覚に変形されてしまうことにもなりがちで(いわゆるゴムのユーザーですね)、役にたたないどころか有害ですらあるってわけです。

まったくもってごもっとも。そういわれてみりゃ、ペルソナにかぎらず、システムイメージにしたって、ゴムでできたような紋切り型がいたるところにゴロゴロしてますよ。自分の身の周りから少しずつなんとかしていきたいと思います。

About Face 3は、こんなかんじでちょっとずつ味わいながらゆっくり読んでいこうと思っています。というわけで、しばらくこのブログは読書ノートになります。

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2009年1月16日金曜日

有料コンテンツ派野郎

ちょっと前に、朝日ニュースターでやってる中村うさぎと金子勝が司会の番組、「ニュースにだまされるな」で、活字メディア、ジャーナリズムの行く末を案じてひたすら悲嘆に暮れるような内容の回がありました。いろんな週刊誌、月刊誌の(元)編集長とかメディア論が専門の大学の先生に話を聞いたりして。

まあ、いろいろあるんですけど、結局、目の前にチラチラしてるのはネットの世界で。それはまた、情報が無償で手に入る、と思われてる世界でもあって。

ちょっとググってみると、有料コンテンツは無理!とかよくいわれてたのは2002年頃だったんですかね。いまもそれはなかば常識のように語られているような気がします。

でも、元週刊現代の編集長の人が、そろそろ、一種の成熟として、ネット上のコンテンツにお金を払う方向性だって開けてくるはず、とかいっていて、実はぼくもこれには同感なんです。

なにがそろそろかって、ブロードバンドと定額制がいきわたって、アマゾンや楽天でリアルなモノをネットで購入するところから慣れていって、音楽をデータで購入するのもいよいよ本格的に受け入れられてきて、ってことでしょう。

だいたいそれ以前から、シェアウェアとか、ネット経由でデータとして買って、なんの不思議もなかったような気もしますし。

それで食っていくって人が時間をかけて作ったものがあって、それに価値を見いだせれば、価値に見合うだけの対価を払って手に入れることに抵抗があるほどアンチ資本主義な人なんていないでしょう。

昔、立花隆が文芸春秋で田中角栄研究をやったときは、ものすごい取材チームを作って、後で単行本にしてよほど売りまくらないとペイしないような取材費を使ったそうです。当たり前ですけど、取材費は売り上げが立つ前に使うわけで、そこには大航海時代の船のオーナーのような投資が必要なんですよね。

こういうのは、今、ネットオリエンテッドじゃできないでしょうけど、これからも未来永劫できないんでしょうか。

というか、既存の紙メディアのほうは、ネットにワリを食わされて、もうこれをやるほど体力がない、みたいなことをいうわけだから、紙もネットもなにもなくて、とにかくもうダメ?、っていう話ですよね。

広告モデルもありですけど、ネットでの広告の主流は、探しものの途上での、探しだされてしかるべきもののひとつとして露出することにこそあって、探し出された、目的地としてのコンテンツの脇でインプレッションという手法は、どうも回りくどいように思われ始めてる。広告モデルとコンテンツは、ネットでは、あんまり相性がよくないと思いますね。

それに、100%広告モデルの立花取材チームというのも気持ち悪いしね。

やっぱり、コンテンツ作る人と、それを面白がる人が直接交換する関係を前提にしたほうが面白くなるタイプのコンテンツも中にはあるんだよなってことでしょう。

でね、活字、というかテキスト中心のコンテンツを、でも売るためには、なんか、入場料、利用料みたいなお金のとりかたじゃ駄目だと思うんですよね。音楽データのように、その先のコピーについてもとやかくいわないで、買った人にデータを渡さないと。あきらかにユーザーと金とブツを交換しないと。

その所有感=無制限なコントローラブル感というのは結構大事だと思うんですよね、やっぱりコンテンツだから、サービスじゃなくて。

たとえば、ネットに接続するところで一回サービス料金を払って、そこでまず小さくない負担意識があるわけですよね。その上、行った先で入場料だと、サービスにどんどん追加料金が嵩んでるような気になっちゃう。

だから、欲しいコンテンツを入手するための手段としてネットへの接続があって、コンテンツの代金とは帳簿の種目が別ってことにしたほうが、同じ金を払うんでも納得しやすいような気もするんですよね。欲しい本に払う金と、欲しい本を買いに乗る電車の電車賃は別っていう。

そういえば、このあいだオンラインの有料模擬試験サービスを立ち上げるプロジェクトに参加したんですけど、あれも、データはID3タグつきのMP3とかPDFにしてユーザーに渡しちゃうのがよかったかも、と思いました。

あくまでもユーザーからもらうお金はデータの対価ということにして。
で、買ってくれたユーザーにはおまけでそのデーターを使ったオンライン模擬試験が受けられるようにしてあげる、とか。そのほうが買うほうも買いやすいような気がしてきた。

いや、それはともかく、活字メディア、改め、テキスト中心のコンテンツの話。

それこそ、iTunesみたいなソフトがあって、それで立花隆が時間をかけて取材したようなノンフィクションとかを買って、管理して、自分のケータイにシンクして読むって世界は結構ありなんじゃないかなあ、と思うんです。

本や雑誌では流通が難しいサイズやスケールでいけたり、ユーザビリティとして紙では得難い体験を得られたり、ねえ、それはそれで、いろいろひろがりますよ。


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2009年1月9日金曜日

縦スクロールLOVE

前に、ある e ラーニングのマニュアルを作ってて、Windows や IE の設定の仕方を説明するのに、Wink というウィンドウやマウスの動きをFlashムービーとしてキャプチャするソフトを使ったことがあるんですけど、これが、えらい不評でした。

全部ボツになって、それまでそうしていたように、静止画と説明文を上から下にずらっと並べる方式に作り直させられました。静止画には、操作する箇所に順番に番号を入れてってやつ。

最初は、そりゃ一連の操作を動画で見たほうがわかりやすいだろう、ってことだったんですけど、正直、自分で作りながら、これってホントにわかりやすくなってるのかなって不安にはなってたんですよね。

ちょっと反省してみると、結局、前の状態が目の前からどんどん消えていくっていうことが、マニュアルには向いてないんじゃないかと。

マニュアルを読むっていうのは、いってみれば、ユーザーが自分の心のうちにシステムのイメージを作り上げていく作業なわけですよね。いわゆるユーザーモデルってやつを。すでに知っていて想定していることを確かめつつ、それと新しくわかったこととの間にを意味のある関連性を見いだしていくというような。了解したときには、ああ、なるほど、そういうことね、はい、はい、はい、なんていって膝を打つわけです。

そういうときって、あれとこれはどうつながるのか、こっちとあっちはどうなんだって、目の前に広げられた情報のあっちこっちを気が済むまで繰り返し見てみたいもんじゃないですか。よほど短期記憶のバッファがでかい人でもない限り。

そうすると、ね、縦にずらずらーのほうがいいわけですよ。きっと。もっといえばそれをプリントアウトして片手に持ったほうが。

そういえば、最近、photoshopとかの画像処理のチュートリアルをよく見ますけど、ああいうのもみんな縦にずらーですよね。それで、わかりやすい。

あと、中高生向けの学習参考書をネットで提供するには、なんて話があって本屋でずっと立ち読みしてたんですけど、参考書の要点のまとめみたいなのって、パワポで書かれた企画書と同じやり口ですよね。ベタテキストは御法度で、メリハリのあるリストと絵解きでって。じゃあ、ネットで、PCで、というんなら、これはスライドショーがいいんじゃないの、とか思ったんですけど、ここで、さっきのマニュアルの話につながりまして、あたらしい概念を頭の中に作るためには、今見たものがどんどん目の前から消えていっちゃう表現は案外つらいかもな、と。メリハリのある表現ってところはそれでいいんだけども。

でもじゃあ、企画書はなんでスライド?あれだってプレゼンを受ける側に新しい概念を理解してもらうためだろうに。スピーチありきの場合は、話のポイントを強調するために、話と同期してシーケンシャルに展開していくスライドショーでいいわけだけど、お手元の資料は違うんじゃないの。そういえば、ちょっとややこしい提案だったりすると、こっちの話はそっちのけで、前のほうのページに勝手に戻って難しい顔してたりするもんね。

そう考えてみると、バスキュールのホームページも、たんにフルFlashで縦にずーっとスクロールなんておもしろいでしょ?ってことなんじゃなくて、いろんな要素をなるべくいっぺんに見られて、あっちこっちチラ見もしてもらいながら、バスキュールのユーザーモデルをスムーズに作ってもらうための工夫なのかもな、なんて思ってみたりして。

どうなんでしょうね。

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2009年1月7日水曜日

石焼きいもレーダー

突然、石焼きいもが食べたいなどと言い出したのである、小学生の娘が。そういわれると、きゅうにこちらも食べたくなってくる。もう何年も、石焼きいものことなど忘れていたような気にもなって。

しかし、今、どこにいけば石焼きいも屋さんに遭遇できるのか、とんと見当がつかぬ。まるっきり見かけたことがない、というわけではない。記憶をたどれば、いつかあの公園の入り口のところに、たしかあの駅のロータリーのところに、といった光景がたしかによみがえる。しかし、よくよく考えてみると、いずれもはるか昔の話。

いもを買ってきて家でこしらえることも考えてみた。娘にどうかと問うてみると、やおら居住まいを正してこちらに向き直り、おとうさん、わたしは石焼きいもが食べたいのです、ふかしいもではありません、と、こうくる。

そこで、休日の手持ちぶさたにまかせ、娘と車に乗り込みほうぼうをさまよってみた。娘には小腹を空かせておくようにいっておいてのこと。もっとも、すでに娘は石焼きいもが駄目ならあんまんが食べたいなどと言い出していたのだが。

母から駅前のパチンコ屋にいたのを見かけたことがあると聞いていた。街道沿いのスーパーマーケットの駐車場によく姿をあらわしていたような覚えがあるとも。それに、一時間もかければ車で一回りできる範囲に、休日ともなればそれなりに人で賑わう大きな公園がいくつかある。香ばしいダミ声を前触れとしながら、原っぱの上にあそび疲れた家族づれを狙いすまして、ゆっくりと近づいてきてもいいはずだろう。よく晴れてはいるが、今日はとても寒い。

しかし、ついにその姿はどこにも見当たらなかった。いくら耳をすましても、遠い空を伝ってあの声が届くこともなかった。石焼いも屋が出てくるにはまだ日が高すぎるのか知らん、などと、なんの足しにもならぬことをいって、娘にはあんまんを買い与えた。

その日以来、往来に、雑踏に、なんとはなしに石焼きいも屋の姿を探し求めるようになった。はたして、さほど日もたたぬうちに二度ほど遭遇することができた。

一度目は、井の頭公園の動物園の入り口のところ。午後6時頃だったか。二度目は、西武新宿線下井草駅の南口にある西友のわきで。こちらはまた別の日の午後11時頃。いずれも一人のときだったが、おもわず、ここにいたか、ああ、ここにもいたか、と声を出した。

だが、このように不意に石焼きいも屋に出会っても、困るのだ。いついかなるときも石焼きいもを辞さず、というわけにはまいらない。どうにかして、こちらが食べたいときに石焼きいも屋を発見し、追いすがる手だてはないものか。

都内の局所的な天気予報を10分刻みで提供するケータイサービスなどでは、各地に協力者を募り、刻々の気象の変化を報告させているという話を聞いたことがある。同じように、石焼きいもを好む者同士、互いに協力しあい、いまここにいた、あそこにいたという情報を集めては、これを Google マップなどにプロットし、リアルタイムに更新し、今、どこにいけば石焼きいも屋に出会えるのかがぴたりとわかる、そんな情報サービスを作ることはできないものだろうか。

あるいは、ケーブルテレビの JCOM などが、専任の斥候スタッフを放ち、地域密着型の情報提供サービスとして提供するのはどうだろう。

石焼きいも屋の業界にどのような組織があるものか知れぬが、元締めたる者が音頭をとり、なんとかしてあの屋台にGPSとネットワーク端末をとりつけてしまうのがいちばん手っ取り早い。食べたいと思ったときに探せるだけでなく、特定のエリアに石焼きいも屋が足を踏み入れるや否や、希望する者にメールで通知が入りもする。はやくこないといっちゃうよ~、などと。

期間限定でもいい、これが始まるといよいよ冬の到来、春先なら、花粉マップがそれにあたる、ネットの風物詩。クリスマスともなれば、サンタクロースをレーダーに捉えるジョークサイトが登場するが、あれははかない夢の話、こちらは、ほっかほかの真実の芋の話。


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