2010年2月26日金曜日

アンデッドメタファー

About Face 3 読書ノートの 26 。

イディオム中心デザインの話にいく前に、もう少しメタファーのことを。というのも、前のノートを書いてて、正直、クーパー言い過ぎじゃないかなと思わないでもなかったんですよね。そんなにメタファーって、だめだったっけって。

ちらちら頭をかすめるのは、eXtreme Programming のプラクティスのひとつ、「適切なメタファー」のことでした。これから作るものについてのイメージを、グッとくるようなメタファーを使ってチームのみんなで共有しておこうというやつですね。

About Face 3 では、実装中心デザインを推進する憐れむべき人々みたいなかんじでしか描かれませんが、プロジェクトの最初期、まだ何を作るのか雲をつかむような段階では、開発者だってまるで日の浅いユーザーとおなじようにシステムに関するメンタルモデルを作るのに苦労するもんなんですよね。そんなとき、メタファーが果たしてくれる役割ってなかなか馬鹿にしたもんじゃないと思うんです。

でも、メタファー中心デザインの功罪の罪のほうを明らかにしつつ、イディオム中心デザインの効用を説いていくアラン・クーパーと About Face 3 のみなさんのお手並みはやっぱり鮮かだなあとも思うんですよね。

で、悶々と考えてみたところ、インタラクションデザインにおけるメタファーの使いどころにはどうも3つくらいの水準があって、クーパーはその全てに否定的になっているわけじゃないんじゃないかなってだんだん思えてきたんです。

一口にメタファーなんつっても、これはちゃんと分けてかんがえないとって。なんでもそうだけど、悶々としちゃうのは、いろいろごっちゃにしちゃうからなんですよね。

というわけで、ばっさり分けてみました。

(1) 利用価値に関するメタファー

かんたんに言えば、一体これは何?何の役に立つの?という問いに答えるメタファーですね。

これは〜のようで、あるいは〜みたいで、そのくせ〜に似てて、そうかと思うと〜風なところもあって、いわば〜でって、一生懸命何かに喩えて理解しようとすること。

それは、仮に目に見えるインターフェースから一切のビジュアルメタファーを排除しても、その働きを捉えるイメージとしてユーザーの心に生まれるし、また、残っていくもんじゃないでしょうか。

eXtreme Programmingでいうメタファーもこれでしょう。

この水準のメタファーは、今ノートをつけている Part 2 Chapter 13 「メタファー、イディオム、アフォーダンス」で取り上げられているやつとはちょっと違いますよね。むしろ、Part 1 で説かれるゴールダイレクテッドデザインと密接に関わるもんでしょう。

今ノートをつけているのは、

(2) 操作手順に関するメタファー

こっちです。端的に言えば、どう使えばいいのか?という問に答えるメタファーですね。

ユーザーが直感的に操作できるようにするための便宜として考えられたなんらかの視覚的な表現を伴うメタファー。フロッピーで保存、ゴミ箱で削除ってね。

クーパーはこれを取り上げて、インタラクションの学習を効率化するための手口としては不確かだって言ってるんですよね。この水準では、誰がどう勘違いするかもわからないようなメタファーに頼るより、その気になれば誰でもかんたんに学習できるような、シンプルで一貫性のあるイディオムを中心にインタラクションを考えたほうがいいよって。

なぜなら ... それは、前のノートにさんざん書き散らかした通りです。

じゃあ、そのイディオムってのはいったいどんなもんなんだって話に自然になっていくわけですけれども、それはまた今度ってことで。ただ、先にひとつだけ言っておくと、イディオムがまたこれ、別の水準のメタファーに大きく依存するんですよね。

それが、次のやつで。

(3) 入力方法に関するメタファー

たとえばクリッカブル、ドラッガブルであることを示唆するために物理的な形状や運動モデルのメタファーが使われますね。あるいは、選択や移動のために方向、内外、重なりなどの空間認知的なメタファーが使われます。もう、ぼくらには当たり前過ぎてそれがメタファーだなんて考えづらいくらいですけどね。

でもこういうのみんな、物理的な世界で慣れ親しんでいるモノの扱い方、つかめそうだからつかみ、つまめそうだからつまむ、いわゆるノーマンのアフォーダンスの喩えなわけです。

クーパーは、こうしたデジタルメディア上のアフォーダンスの有用性を十分認めつつ(それらはイディオムの基礎にもなります)、しかし、それはあくまでも仮想的なものなので、現実のアフォーダンスと違ってかんたんにユーザーを裏切ることもできちゃうから、せいぜいみんな気をつけようぜ、なんて言ってます。

以上です。

と、まあ、やっとこれでね、自分的には心置きなくイディオムに進める準備が整いましたって感じです。

ところで、イディオムってつまり慣用句ってことですけど、慣用化した比喩のことを死喩っていうんですよね。デッドメタファーです。喩え喩えられる関係が持っていた豊かさはみんな擦り切れちゃって、もう本来の意味なんてどうでもよく、たとえば、いまや誰も知らない骨董的な記憶媒体のイメージがファイル保存の記号として生きのびていくような死喩の旅。

でもね、すべてのメタファーがそうしてイディオム化していくわけでもないのです。きっと。


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