なぜ綴じ製本が考案され、ひとつの道具としてこれほど強い支持を集めているのかといえば、なにはさて置いても、まず最初に、長大な文章へのランダムアクセスが簡単になるという点を挙げざるをえないでしょう。
どんなに長大な文章でも、裁断した紙に順番に印刷していったん綴じてしまえば、任意の箇所をページ数で指し示すことができます。その後で行数、文字数を示せば完璧です。
よく知りませんが、聖書なんてあんな寄せ集めの本、綴じ本がなきゃ企画もされなかったんじゃないですかね。
巻き物に、そんな真似はできませんね。やっぱりよく知りませんが、三蔵法師が持って帰ってきたありがたいお経というのは、一本一本別々のものだったでしょ?
しかし、これはいってみれば「図らずも」ってかんじなんだと思いますが、綴じ製本は、シーケンシャルアクセスに対しても、大きなメリットを発揮していたんだと思います。
それは、長文を読む際に、
・一度に読める範囲を移動していく度に行われる目と手の協応動作を簡単で安定的なものにした。
・ページをめくるときに一瞬本文から目を切ることが、一種の強制的な「瞬き」として脳が休む時間を作っており、かえって長時間本文に向かうことを可能にした。
前者のほうは、前の NehanTouch お披露目エントリーで述べたとおりです。前者のメリットがあるんで、紙の物性から離れても、ページネーションにはユーザービリティ上の一定の合理がありえる、というわけです。
で、後者のほうなんですけど、ぼくは、ページネーションでペロってページがめくれるようなものにしろなんにしろ、トランジションにはたいして意味を見出せなかったもんですから、その NehanTouch では、前後のページへの遷移はただあっけらかんと一瞬で全文を書き換えるだけにしておいたんです。
だってねえ。そもそもあれこそ、メディアの物理的性質上、避けることのできなかった情報量ゼロの視覚的ノイズでしょう。そういう制約からせっかく解放されたデジタルデバイスの上で、なぜわざわざ苦労して(むしろ喜んで)、忠実に再現しようとするんだろう?そこには、About Face 3 も揶揄していた、車に手綱を取り付ける類のアナクロニズムが潜んでいるんじゃないの?本のメタファーとかいって、なにもそこを真似ることはないだろう、ってね。
ただ ... ええっと、自分で作っておいてナニですけれども、結構ぼく、NehanTouch を愛用しているんですよ。かなりこれ使って、ガンガン読んでます。東浩紀の昔の論文とか見つけたりして。
そしたら、そういう、ほんとに長いものを読んでると、なんとなく息苦しくなってくることに気がついたんです。よくわかりませんが、たぶん、読むこと、ページをめくること、これらを繰り返すことが単調すぎるからじゃないか。なんかの栄養が足りないのかも知れませんが、だんだんキーッとなってくる。紙の本の場合は、疲れてきて文字を追えなくなったり、内容がさっぱり頭に入らなくなるということはあっても、そんなかんじになることはないのに。
で、そう思って、改めて本を手にとってみると、じつにこう、複雑な動きを求められていたのがわかるんですね。左右の手のそれぞれの動きと、そのコンビネーション、そこに視線移動が同期して、読むという行為が完成する。その複雑さは、あれ?さっきなんて書いてあったっけ?なんて、遠く離れたページの間を行きつ戻りつしているときに最高潮に達します。
そうやって読書というものをあらためて反省してみてですね、やっぱり「ページをめくる」っていうのは、「読む」に匹敵するほど大きな行為だったんだなってことに気がつきました。そして、ページをめくるたびに、文字の世界を少しだけ遠くに離して、そのぶん、ひらひらとページが舞っているサマにほんの一瞬だけど心を奪われるのは、なんというか、悪くない。
これが、まあ、読み方にもよりますけど、一定のタイミングで割り込んでくるわけで。それがひょっとすると、過度な神経の集中をうまく逃がしていることになっているのではないでしょうか?脳と神経の休憩、リフレッシュ。読むという行為には干渉しない視覚的なアソビ。一種のアース。つまり、瞬きの延長。ですね。
そうすると、こちらもまた、紙という物性から解放されてもなお、ユーザービリティにおいて一定の合理がある。といえます。ページネーションに紙のようなトランジションを導入することを笑ってはいけません。
ね。
しかし、ここまでの理屈だと、いわゆるスライドイン/アウトみたいなトランジションで事が足りるんで、あのペロっとめくれるページカールってやつまでは擁護できないんですよね。ページカールでも十分に上記の合理を満たすことはできるんだけど、逆にページカールじゃなくちゃダメってことにはならない。やっぱりアレはやりすぎだよ、ガハハってことでいいかな?
ただ、こういうことはいえる。その手のトランジションというものは、全部ひっくるめて、ユーザーの関心を誘うギミックなんだ、と。この点をけっして無視することはできないでしょう。それは、いわば物珍しい魔法として、実際に手にとってみたいという欲望を駆り立てます。道具にとって魔法のようであるという特徴は大事なことです。魅力的な道具は、たいした用事もないのに、なんとはなしに手にとってみたくなるものですよね。
だいたいタッチインターフェースそのものが、アップルの一番偉い人がそう叫んだように、そもそも魔法として広められているわけです。そして、ハリーポッターの映画とかを見ていてもわかりますが、たいていの魔法(われわれのファンタジックな想像力と欲望)は、まったく荒唐無稽なものではありえません。それは、基本的には現実に基づきつつ、しかし、どこかでわずかに現実を裏切って時空の原則を超えていくものとして構想されます。そうじゃないと、われわれの欲望をうまく掻き立てることはできないんですよね。
さて、そうだとすると、ですよ。ページネーションにおける魔法の王様は、やっぱりページカールということになるでしょう、諸君!ページをめくるんだから、現実に基づけばあれ以外には考えられない。しかし、よく考えたら、実際の本があんなにディズニーっぽくめくれ上がることはありえないわけで(忠実な再現なんてとんでもない!)、その点でほら、魔法の要件を完全に満たしているんですよ、あれは。それに比べたらスライドインなんてショボすぎるってなもんです。
えー、というわけでございまして、そんなことをつらつら考えてですね、結局、NehanTouch のページネーションにもトランジションをつけてみることにしました。といっても、ページカールなんて高級な魔法はとても無理なんで、とりあえず、スライドインでひとつご機嫌を伺ってみようと。えー、意味深なタイトルをつけて、わけのわからないことを書き連ねてしまいましたが、実はそれが言いたかっただけでした。
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