まあ、いろいろあるんですけど、結局、目の前にチラチラしてるのはネットの世界で。それはまた、情報が無償で手に入る、と思われてる世界でもあって。
ちょっとググってみると、有料コンテンツは無理!とかよくいわれてたのは2002年頃だったんですかね。いまもそれはなかば常識のように語られているような気がします。
でも、元週刊現代の編集長の人が、そろそろ、一種の成熟として、ネット上のコンテンツにお金を払う方向性だって開けてくるはず、とかいっていて、実はぼくもこれには同感なんです。
なにがそろそろかって、ブロードバンドと定額制がいきわたって、アマゾンや楽天でリアルなモノをネットで購入するところから慣れていって、音楽をデータで購入するのもいよいよ本格的に受け入れられてきて、ってことでしょう。
だいたいそれ以前から、シェアウェアとか、ネット経由でデータとして買って、なんの不思議もなかったような気もしますし。
それで食っていくって人が時間をかけて作ったものがあって、それに価値を見いだせれば、価値に見合うだけの対価を払って手に入れることに抵抗があるほどアンチ資本主義な人なんていないでしょう。
昔、立花隆が文芸春秋で田中角栄研究をやったときは、ものすごい取材チームを作って、後で単行本にしてよほど売りまくらないとペイしないような取材費を使ったそうです。当たり前ですけど、取材費は売り上げが立つ前に使うわけで、そこには大航海時代の船のオーナーのような投資が必要なんですよね。
こういうのは、今、ネットオリエンテッドじゃできないでしょうけど、これからも未来永劫できないんでしょうか。
というか、既存の紙メディアのほうは、ネットにワリを食わされて、もうこれをやるほど体力がない、みたいなことをいうわけだから、紙もネットもなにもなくて、とにかくもうダメ?、っていう話ですよね。
広告モデルもありですけど、ネットでの広告の主流は、探しものの途上での、探しだされてしかるべきもののひとつとして露出することにこそあって、探し出された、目的地としてのコンテンツの脇でインプレッションという手法は、どうも回りくどいように思われ始めてる。広告モデルとコンテンツは、ネットでは、あんまり相性がよくないと思いますね。
それに、100%広告モデルの立花取材チームというのも気持ち悪いしね。
やっぱり、コンテンツ作る人と、それを面白がる人が直接交換する関係を前提にしたほうが面白くなるタイプのコンテンツも中にはあるんだよなってことでしょう。
でね、活字、というかテキスト中心のコンテンツを、でも売るためには、なんか、入場料、利用料みたいなお金のとりかたじゃ駄目だと思うんですよね。音楽データのように、その先のコピーについてもとやかくいわないで、買った人にデータを渡さないと。あきらかにユーザーと金とブツを交換しないと。
その所有感=無制限なコントローラブル感というのは結構大事だと思うんですよね、やっぱりコンテンツだから、サービスじゃなくて。
たとえば、ネットに接続するところで一回サービス料金を払って、そこでまず小さくない負担意識があるわけですよね。その上、行った先で入場料だと、サービスにどんどん追加料金が嵩んでるような気になっちゃう。
だから、欲しいコンテンツを入手するための手段としてネットへの接続があって、コンテンツの代金とは帳簿の種目が別ってことにしたほうが、同じ金を払うんでも納得しやすいような気もするんですよね。欲しい本に払う金と、欲しい本を買いに乗る電車の電車賃は別っていう。
そういえば、このあいだオンラインの有料模擬試験サービスを立ち上げるプロジェクトに参加したんですけど、あれも、データはID3タグつきのMP3とかPDFにしてユーザーに渡しちゃうのがよかったかも、と思いました。
あくまでもユーザーからもらうお金はデータの対価ということにして。
で、買ってくれたユーザーにはおまけでそのデーターを使ったオンライン模擬試験が受けられるようにしてあげる、とか。そのほうが買うほうも買いやすいような気がしてきた。
いや、それはともかく、活字メディア、改め、テキスト中心のコンテンツの話。
それこそ、iTunesみたいなソフトがあって、それで立花隆が時間をかけて取材したようなノンフィクションとかを買って、管理して、自分のケータイにシンクして読むって世界は結構ありなんじゃないかなあ、と思うんです。
本や雑誌では流通が難しいサイズやスケールでいけたり、ユーザビリティとして紙では得難い体験を得られたり、ねえ、それはそれで、いろいろひろがりますよ。
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